小論文

高校の国語の先生と話をした。


今度、小論文作成の担当をするらしい。


「起承転結」だとか「通説を述べ、自説を展開し」「事例を上げ」「論証し」「予測される反証に対する手を打ち」「結論を述べる」(以上「 」内は、筆者うろ覚えのため、たった今でっち上げた)なんて構造を講義するらしい。


教師というのは、生徒に比べると、その教科の全体像に長けている人である(はずだけど)。生徒にとっては初耳のやたら難しい興味のわかないつまらないことも、実際どこでどのように使われて誰の役に立っているのか、というようなことは、少なくとも生徒よりも分かってるはずである。


そこで、小論文。


この学校で小論文のクラスを設けるのは、結局は入試対策である。「入試はセンター試験と面接
 それに小論文」なんてパターンが多いから。


そして、人生の過去において、小論文的文章なんて読んだこともない生徒がいきなり書くのである。書き方のパターンぐらいは覚えておけよ、というクラスのあることはやぶさかではない。


しかし、人よりも日本語を書いたり読んだりすることが好きで国語の先生をやっているのであるから、生徒よりは「小論文とは何か」という当初目的について分かっている。だから、「本来小論文というものはね」という説明がしてやれるのは先生だけである。


もともとそれはどういうものなのか、というのが腑に落ちているのと、何かわからないけど、こう書けと言われるのでは、学習成果に差は出る。


では小論文とは何か。


小論文とは「私は人よりもちょっと賢いぞと密かに思っている人が、私より先に世間からあの人は賢いと認められているように見える人たちに対して、文章で、ある問題を論じることによって、ねっ、私もそこそこは賢いでしょ、もちろんみなさまにはまだまだ劣りますが、まっ、末席のあたりに入れて下さい、とお願いする申請文書」のことである。


なぜ学生諸君の人生に、今まで小論文(的文章)に接することがなかったかと言えば、小論文(的文章)を書くような人が発表するような雑誌は、筆者よりも知的レベルが同等か高いというムードを持つ雑誌に限られるからである。


岩波書店なんてのがトップにあげられるのではないか(読んでないからわからないけど)


故に、ティーンズなんたらなんて雑誌に「最新のネイルアー特集」と並ぶこともないし、近代麻雀とか実話時報なんかに掲載されることはない。(でも麻雀の達人の桜井章一さんの書く文章はそのへんの評論家やスポーツ選手なんてふっとぶような中身だし、四代目工藤会相談役 故溝下秀男氏の「極道一番搾り」なんかは、若い頃の椎名誠さんのエッセイぐらいのインパクトがある)。


知的レベルが高いと自負している人は、自分は人よりも賢いよ、ということを披露する機会というのは、実はなかなかないのである。学生時代のように毎週試験でもやってくれれば知的ランキング上位にいるでしょ、というのは明らかだが、社会に出てしまうと実はそんな機会はないのである。


そこで知的レベルが高い、と自負する人たちは、他者の間違いをするどく指摘することで、少なくとも僕はこの間違った人よりも賢いのだ、ということにせっせと励むようになる。


そういう読者を想定して書くものであるから、その文章作法というものは、述べたいことのアピールよりも、突っ込まれないための防御が硬くなるのは容易に想像できる。


格上の国と当たるワールドカップのブルーサムライニッポンのようなものである。ガチガチに防御を固めて、ワンチャンスで言いたいことを決める。


書き手が賢いというのは極力避け、読み手の知的レベルは高いですね〜ということが行間からぷんぷん臭ってくるようでなければいけない。


かんでふくめるように、小中学校の教科書のようにわかりやすく書いてはいけないのである。教科書のように書くと、読み手は「俺のことをおまえよりアホやと思っているな」と怒って読んでくれないからである。


そこで、読み手の知的レベルを高いものと尊重した「防御の型」がしだいにできあがる。


そうして出来上がったものが、その国語の授業で解説される中身である。


学生諸君は、今までほぼ横としかまともに意見交換をしたことがない。書き手よりも賢いと自負している人に意見を述べる作法など知らないのである。


とりあえず、その作法にのっとってないと読んでももらえない。


だから、取りあえずはつべこべいわずに覚えろ、ということである。


そして、そういう「およその形式が整ったけど、中身は自由」というものが世の中にすでにあり、その形式が試験の際にはとっても便利だったのだ。


やったことないからわからないけど、試験問題を作るってとっても大変だろうと思う。過去に出題された問題だと、その問題がたまたま採用された問題集で勉強した学生が有利になってしまう。


全員が解けるように優しい問題だと差が付かないし、誰も解けないような問題だと合格者がゼロになる。


そういうことに気を使って作らないといけない。


そこへいくと小論文は楽である。「○○について述べよ」と、○○と文章量だけ決めればいい。


だからと言って「○○って、僕知らない」とか「○○は嫌いです」と書くわけにはいかない。


小論文というのは、実は○○をテーマに自分で問題を作って、解答する作業なのである。


だから、問題作成能力と解答力の両方を観ることができて、およそ型が決まっているから、いい、わるい、優秀、不出来、陳腐という採点基準もまるっきり「試験官の主観しだい」ということにはならず、ほぼ誰が観てもいいものはいいし、あかんのはあかん、ということになる。学校の方は問題づくりに時間をかけないでいいし、とっても便利なものなんである。

だから、小論文がやたら出てくるんだよ(以上、すべて推定・憶測)


というようなところから授業を始めてはいかが、という話になったのだけれど、採用されないだろうなあ。