日誌より
【胸のライト】
胸のライトを光らせるという稽古がある。胸の中心を光らせているつもりだ。
観察する。のどの前に意識がある。胸のライトをやっているつもりで、胸鎖乳突筋のこわばりを感じているだけだ。わかりやすく言えば、「単に肩こりを意識していただけ」。知らずに延々やっていた。
それに気づくと、すこしずつましになる。意識が胸に来た。胸のライトを光らせる。それをやっている「つもり」だ。
どこまで光が届いているのかを感じる。どこにも届いていない。
稽古していることにはならない。知らずに延々やっていた。
どこまで光が届いているのかを感じる。2メートルかな?などとやっていた。
本当に電球を感じる。(想像だけど)どこまで光が届いているか分かるというのは、当たって跳ね返ってくる光を感じるということだと実感する。
そこで、今の稽古は、胸のライトから発光した光が、周囲に当たって跳ね返ってくる光の感触を感じる稽古となっている。
たぶんこれも正解ではない。
【受験に学ぶ】(一冊を仕上げる)
受験の神様と後に言われるようになった人が、学生時代に漢文のテストで満点を取った時の勉強法。
薄っぺらい、一見「これだけやってもとても無理だよ」というような見てくれの、問題集だか参考書だけを延々やっていた。その一冊を完璧に隅から隅まで覚えたら、いきなりそういう実力になったと書いてあった。
今、たまたまN先生の本でそれをやっている。
【読書】
でも、これも怪しい。○○と書いてあった、という私の記憶がである。(さっき読んだところだったんだけど)
読書というのは、作者の真意をつかみ取ることだと思っていたが、実際に私がやっているのは「私に都合のいいように誤読する作業」の色が濃い。
これは暗記用の本ではなく、自己啓発方面の本の話。
前は「何回読んでも発見がある」と思っていたが、最近は「よ〜もこれだけ、自分に都合のいいように浅い解釈してまんな」という読み方になった。