農的生き方?

去年の一月、お正月。その後の一年がこんな一年になるなんて思ってもみなかった。


幸いにして、被災する側ではなくって、救援に向かう側ですんだことは、本当に偶然にすぎない。諸行無常と仏教で言うが、まさしくそのとおりを実感した。



ゆるぎない大地だと思っているのはただの思いこみで、まるで水のように波打つのがその実態だった。そういう一年を突っ走ってきて、どう生きていくのかというのが常に問いかけられる。悔いのない毎日を送ろうという言葉は聞くが、じゃあ悔いのない毎日というのはどういうことなんだろうか。


若いころは、なにかで飛び抜けた業績を上げる(経済的な成功だったり、すばらしい研究だったり)、でかいことをやる、大きなことを成し遂げるというようなことを漠然と思っていたが、そういう「一つに賭ける」というのは念頭から去ったようだ。


明日突然生活が根こそぎかわってしまうような事態が起こった時にどうなんだ。



今年、石巻にいかないで安全な関西でそれまでの延長線上で仕事をしていたら、経済的には安定していただろうけど、自分が何のために整体や身体の仕事をしていたか、その根っこがゆらぎ、精神的におかしくなっていただろう。


同じく、和歌山が被災した時に、ほったらかしていたら、やはりおかしくなっていただろう。


でも、その間仕事はほったらかすので、無収入になる。持ち出しになる。家族とも長期間離れる。整体を受けている人も、長期間離れたことで極端に体調を崩す方もおられた。


どれか一つに集中できれば、その期間はそれなりの満足感はある。が、やはり後で不安定来る。つけが回ってくる。


やはり「悔いのない」に向けるなら、ぜーんぶやるしかない。


進化体操も、整体も、研究も、執筆も、家族も、被災地救援も、万一長生きした時のための趣味も、将来の災害に向けての準備も、ぜーんぶやり始めている。


これは一つTY式のおかげだけれど、ある程度それができはじめた。


ぜーんぶ手をつけているから一つ一つは少しずつしか進まない。でもいい。少しずつでも続き、過去が未来につながっていっている実感があるから。


一つ一つは少しずつしか進まないけれど、一日やりきったら「あ〜、一日分進んだ」「今日も根こそぎ変わってしまわざるを得ないような致命的なことが起こらなかった」というとても大きな感謝心のようなものがわき起こってきた。


もちろん、怠けていた日には起こらない。でも怠けなかった日には起こる。


怠けなかった日が増えてきて、ある日、とても自給自足的な農業的に似た生活だなあと感じた。複数の作物を、時期をずらして育て、少しずつでも毎年収穫が多くなるように、畑を広げ、よりいい土を作っていく。怠けているとたちまち停滞して、失敗して、後退してしまう。


続けているうちに、続けていく値打ちのないものがふるいにかかっていく。続けるだけの値打ちのあるものが残っていく。


去年を経験して、今、そういうことを感じている。