長男巣立つ・記録3回目
【本日の中身】
■近況
■ボランティア記録 連載3回目
長男・啓生(ひろき)、進学のため家を出るので本日は引っ越し。逆瀬川の新居まで荷を運ぶ。
下収納ベッド、テレビ・電子レンジ・バス・トイレ・電磁調理器・洗濯機など完備。
33年前の私の下宿は、、、トイレ・炊事場・洗濯機共同、お風呂は大家さん一家6人と学生10人が共同。四畳半で一ヶ月6000円。
電話があると大家さんが畑の間を下宿棟まで走ってきて
「津田さーん、電話ですよー」
と玄関で叫ぶ。耳にしたら自室から
「はーい」
と叫んで階段を駆け下り、大家さん宅まで畑の中を走っていき、電話に出る。
というような時代であったから、なんと豊かで、貧しい国になったものだと思う。
さらに自転車・電化製品を買い整え(って息子がね)、一通り片づいたので親子で合格祝いにホルモン焼きを食いに行く。
祝いだから、少し贅沢に肉を選ぶ。塩ホルモンなる看板が出ていて前から気になっていた店。下味についている塩味だけで絶妙にうまい。9割方たれを使わず食す。美々なり。
親子でホルモン焼き。実は亡父との思い出の食事。一度だけ連れていってもらった。兄貴はいなかったからこちらが高校生ぐらいの時か。
自分が親になってみて、自分の学生時代を思い出してみて、いかに親に心配かけているこどもだったかを痛感。
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東日本大震災活動記録連載3回目
2011年3月13日
すでに活動しているかつての仲間たち
やっぱりもう現地入りして動いているんだ。
吉村さんのブログには、宮城県名取市、また岩手県各所で活動している様子がすでにアップされていた。
吉村誠司の地球日記ブログ http://williamseiji.wordpress.com/
吉村誠司さん。阪神大震災の時に生まれたボランティア団体、神戸元気村・当時副代表。イラク戦争の時には、「人間の盾」になりにイラクへ行っていた吉村さん。吉村さんと知り合ったのは、阪神大震災の翌年。ナホトカ号の日本海重油流出事故のボランティアに行って知り合った神戸元気村のメンバーに会いに、神戸にある事務所を訪れた時だった。
それ以来、大災害が起こるたびに吉村さんのブログを見ると、いつももう動いている。鳥取県西部地震でも、中越地震でも。まさかと思った中国四川省の地震の時も、ブログを開くと「ただいま空港です」。
東日本大震災のテレビ報道を見ながら、呆然として悶々とする。何かしないとという思いがこみ上げてくる。行くしかないというのは分かっている。あの神戸の、あの被害を上回る災害だということは刻々とあきらかになる。毎日吉村さんのブログを見て、何もしていない自分に悶々とする。
また、元・日本財団の災害支援担当だった黒沢司さん(ナホトカ号の際に、現場でお見かけしていた)のブログを開く。同じく被災地で活動を始めている。
高知県土佐清水も水害の時に一緒になった、四国四万十川のカヌーガイド、四万十塾の木村とーるさんのブログ。吉村さんと合流している。
阪神大震災で被災して以来(伊丹市だったので被害はましな方)、大きい災害の時、都合がつく範囲で救援活動していた。ただ、いつのまにか大規模な自然災害が多すぎて慣れっこになってしまったのか、ここしばらくは何年もご無沙汰していた。
二日三日とがまんした。決して裕福な生活をしている訳じゃない。行けば二日や三日で帰れる現場でないことは行く前からわかる。この春、桜の咲かなかった長男は予備校生活スタート直前だ。なかなかお金がかかるんだよね、予備校って。
その間に吉村さんは、被災各地で活動されている。物資も届いていない。ガソリンはない。行政は、職員そのものが被災し、また亡くなられている方が多数あるらしい。ボランティアは圧倒的に不足しているというかほとんどいない。
その中で、絶望的な被害の大きさの前に、それでもできることを探して必死に動いている。再開した温泉を見つけては、ワゴン車を駆って被災者を連れていき、夜中に他県までガソリンを買い出しに行っては、必要な人に届けている。その間、俺はテレビを見ているだけだ。大変だ、大変だとテレビの前でいくら思っても、具体的に誰も楽にはならない。助かりはしない。(続く)