暑くない夏 進化体操とともに

今年の夏が暑くないです。


さかのぼると、5月6月、7月の途中まで「今年はいい気候がいつまでも長いなあ」と感じていたことがあげられる。例年なら、5月にもなると「暑い」日が出てきて、あっとうまに「夏みたいやんけ」となり、9月10月と残暑がだらだらと続き、気候がよくなったかなと思ったらすぐに冬になる、という思いでした。


なんせ、昨年は少しずつ暖かくなろうかという時期には、氷点下また雪の降る東北にいて、残暑が続くという9月からは、水害の那智勝浦でもっぱら屋外にいたので、今年がすごしやすいと感じるのかなと思っていたけれども、より夏が本格化する7月、梅雨があけて夏本番、「今日の最高気温は35度です」というような時期になっても明らかに暑さがこたえない。


私だけの特異現象かと思ったが、進化体操が習慣化している人お二人からも「実は先生、今年の夏は暑くないんです」という報告をもらったので、そうではないみたいです。冷房がこたえないというコメントもありました。


朝は「さすがに朝は清々しいなあ」という感じで、お昼に冷房の効いた室内や電車から外にでる際にも、温度差はもちろん分かるけれども、げんなりした気分になるという反応が出ない。


小学生のころなど、炎天下でも平気で遊んでいた記憶があるけれども、一方で夏休みの記憶で暑くてなにもやる気にならないとごろごろと寝ていた記憶もある。それがない。先日の最高気温が35度ぐらいになった日も、クーラーも扇風機もあるけどかけない自宅で過ごし、暑さゆえに何かの行動をするのにブレーキがかかったという記憶がない。



夜は夜で、熱帯夜だと報道されていても、ほんのかすかな風などが吹いた瞬間に感じる肌の涼しさをすかさずキャッチして「あ〜、涼しい夜だなあ」と登録する。そういう感じなのです。


気温の高さを感じないわけではない。気温が高いのはわかるけれども、それによってマイナスが生じる度合いが著しく低いという感じです。


この話の詳しくははまた別の機会に書きますが、人が瞬間瞬間に入力している情報量というのは膨大なもので、寒冷乾湿視覚聴覚嗅覚味覚平衡感覚などなど、意識を向けたものだけを感じているのではなく、すべて入力されている情報の中から、ほんの一部だけを感覚の上に上げているというのが実際です。


毎秒毎秒身体各部分から上げられる膨大な報告書を、わんこそばのように漏らさず認識しているのではなく、回転寿司のようにごく一部の情報だけを味わい、しかもそれを味わっている間に流れていく別の膨大な皿の情報は、通り過ぎたことさえ意識していない、という状態です。


そういう感覚器官と意識の関係から考えると、今年の筆者はあらゆる環境の情報の中から「快適だなあ」と知覚できる情報を優先的に意識の上にのぼらせるという回路が作動しているという仮説が立つ。つまり回転寿司の皿が


「暑い」「熱い」「だるい」「湿気てる」「日差しがきつい」「風が気持ちいい」「暑い」「暑い」


のようにながれていて、無意識に「風が気持ちいい」の皿だけを選んで食っているようなのです。


快適感覚選択回路が強化されているというのでしょうか。


そういえば、食事の回数や量も明らかに昨年よりも減りました。これも「太ってきたから減量しなきゃ」という意識主導の行動ではないのです。ふつうの量の食事を一日に二回も三回も食べるとおいしくないので、本当においしい食事回数と量に変化することにブレーキをかけなかったら、ふつうの量の食事は一食、後は食べないかほんのわずかな量だけが、一番快適だねという感覚になったという経緯をたどりました。


「不平不満を口にするな、思ってもいけない」という精神訓話をかつて修業時代にいただいたことがあるのだけれど、言葉どおりに意識的に実行しようとしたらこれはまったく無理な話であって、不平不満は、意識して湧かせるものではなく、意志と関係なく浮かんでくるものだからです。


あらゆる情報の中から、自らにとってとても快適だと感じ取れる情報を優先的に感覚の上にのぼらせる回路が活性化されたらそうなってきたみたいです、というのが現状の感触です。そしてそれは、不平不満不快な心情を減らそうとしたのではありません。


『あらゆる情報の中から、自らにとってとても快適だと感じ取れる情報を優先的に感覚の上にのぼらせる回路が活性化された状態をつくる』のに、無意識反射の状態に一定時間没頭するという進化体操が大きく貢献していることは、ほぼ間違いないようなのです。


ここまでの文章を南海電車の中でぽこぽこと打ってなんばで降りて歩くと、ますます「暑くないと感じ取れる情報を敏感に拾いまくってくれている私のからだ」を感じます。


南海なんば駅大階段下の「冷却ミスト」なんか、今までは真下に行っても「ほとんど効かないやんけ」と思っていたのが、階段ののなかばで「あれ〜、涼しいでー」という敏感さ。


さらに地下鉄に向かう途中で、この暑さが本格的になったある日に、いつもよりも首の柔軟性がアップしていることに気づいていたことと、合わせて夏には重くなる足が、首の柔軟性が高まったと感じた同時期あたりからどんどん軽くなってきたことも思いだしてきました。


これで私の意識はますます「暑くない」「首が柔らかい」「足が軽い、歩きが軽い」という情報にロックオンしてしまいました。


人は膨大な情報から、特定の情報だけをごく一部だけ感覚に上げてくるのですが、たとえば「言葉」を使うことによってキャッチする情報を限定していくことができます。「デザート、デザート」といいながら、回転寿司の皿の列を見れば、きっとにぎり寿司の姿が減り、パフェの皿が目に飛び込むようなものです。


親父が亡くなってしばらくは街中には親父と似た年格好の人ばかりが目につき、子どもができたころには町中赤ちゃんだらけになりました。


そういう原理を使っているのが進化体操の【自分の身体に感じ取れる好ましい変化を見つけたら、部位名とともに「あっぱれ」と叫ぶ】、という「あっぱれ訓練法」です。



ということで、進化体操練習中のみなさま、黙々と無意識反射に没頭するもよしですが、あっぱれ訓練も怠りなくお試し下さいね。たぶん、そのどちらもが「暑くない夏」を引き出してくれているようですから。