計画は修正するためにある


人は直線上で生きてはいない


昨日書いた、潜在意識の話の続きです。達成したい状態をイメージするというのがあります。こういうのは、スポーツ選手が具体的な大会で優勝を目指すというような「目標以外はよそ見厳禁の直線的な歩み」の上では効果的だろうと思います。


ところが庶民の日々の生活というのは、それほど単純なものではありませんで、曲線的で波線的で、断線的で、複合的であります。


忙しい時ほどハプニングが起こり、人にプランを話せばけなされて落ち込み、それではと黙っていると協力が得られずつきあいが悪いと言われる。


マイペースでやればいいのよ、と人に気安くアドバイスできる人はよほどに恵まれている人か、まわりに「あて」にされていない人で、気の利いた動きができる人や、間に合う人にはまわりに頼られるので、マイペースなどはなかなかありえない。


自分一人「こうやっていくんだ」と長期計画を立てたとしても、その人の価値が上がるほど実際にはマイペースで長期計画など難しいものなのであります。


直線的な計画実行というようなものは、実際にはご縁のあるあらゆるものを片っ端から切り捨てるか、まわりに強制的に合わさせるかでもしないことには、なかなかできるものではないのです。


細胞はかく育てり


人の細胞というのは、DNAによってその未来が決まっているかのようなイメージがありますが、「生物と無生物のあいだ」の福岡伸一先生によりますと、DNAなんてものは、せいぜい商品カタログの程度のものでしかないと言います。精密な工程表ではないのであります。


受胎した生殖細胞が独立した人になる過程で、その行き先、何に変わるのかという見通しは実はきわめて曖昧で、分裂途中の細胞は、自分の行き先をどう決めているかというと「まわりの空気を読んで」決めているといいます。


お隣の細胞が外胚葉になって皮膚になりそうだと空気を読んだら、だったら私は内臓方面に分化していきましょう、というようなことをやっている。


細胞がどうがんばったって、自分の一部にしかなれないのは運命であって、途中で虎になりたいと思っても、それは無理と言うもの。大筋の将来のわくが決まっている中で、空気を読んでその場その場で進路を決めていく、という営みが行われた結果、私は無事私になったわけです。


私を構成している細胞の一つ一つが、その時その時のその現場での空気を読んで次の行動を決めていくということを基本原理に採用している以上は、その集積である私全体がそれとまったくことなる行動原理に従って生活していくというのは無理がありそうです。


一日のうちにこういうことをやっておきたい、ということが一昨日?のブログで列挙しましたリストであります。あれは要するにDNAだったわけです。へー、そうだったのか、書いていて感心した。


一日の立ち上がりに、それぞれをせいぜい長くて1分という時間で片っ端から着手していくというのは、受胎直後の活発な細胞分裂に似ています。


皮膚になろうと舵を切った初期の細胞だって、分裂し始めは皮膚とも何ともいえないものです。皮膚になる外胚葉だって、皮膚にもなれば神経にもなるのです。それが皮膚や神経として与えられた役割を果たすのはずっと先の話です。


リストアップしているもの一つ一つに、3分5分と実行時間が積み上がってくると、それぞれの項目は徐々に目的にかなった方向へと内容が決まってきます。


皮膚なら皮膚、内臓なら内臓。それも胃なのか腸なのかというのが現れてくる。方向性が明らかになってくれば、迷いなく実行できるというものです。


整体の参考書という項目でも、1分で全体をざっと眺めるあたりから、近々こられる予定の方の症状に対応するページを見つけて、そこを集中的に読むというような変化です。



頭で立てた計画通りやろうとして過去何十年うまくいかず、最近の「計画する部分をできるだけ方向性だけに押さえて、実行しながら自然に方向が見えてくるのを以て良しとする」という方式の「身体との相性の良さ」を語っております。


逆に言えば、「緻密に計画することの弊害」を熱弁しているのであります。


「計画の実行」というものは、「過去の自分」にあれこれ指図されているようなものです。


記憶が一環しておりますから、たぶん同じなのでしょうが、少し前の自分の書いたブログなどを読むと、ほとんど忘れていて「この人おもしろいことを書くなあ、とても共感できるなあ」と読めてしまう。書いたのは自分なのですが、自分だとは思えない。それぐらい他人なのです。


過去の私と今の私のどちらが偉いかといえば、私は今の私の方がちょっと偉いと思っております。ヤクザマンガで、さえないチンピラがタイムスリップして過去に行き、若かりしころの自分と入れ替わり、チンピラだった以後につちかった知見によって、どんどんと任侠界でのし上がり、立派な兄イ(親分)になっていく、というのがあります。


その設定に怒る人がないことでもわかるように、若造の私よりも今の私の方が偉いのであります。能力的に優れているのです。故にチンピラ(過去の私)が立てた計画を、親分まで出世した私(今の私)が忠実に実行するという図式はおかしいのであります。


この「チンピラ→兄貴(親分)理論」にしたがって「計画的行動」というものを解析すれば、


「兄貴、これがあっしが立てた段取りでござんす、駆け出しもんのあっしの段取りですから、一つ兄貴が実行しながら修正しておくんなすって、血肉の通った、花も実もあるものに仕上げていっておくんなさい、一つ兄貴、よしなによしなに」


というものであることが分かる。


ゆえに計画通りうまくいかない、なんてことに落ち込んで時間を無駄にすることはやめ、その計画を一応の方向性を示すものとして尊重しつつ、実行しながらその場その場で修正していったらいいやん、というのが本日の提言です。。


以上が、ジェルか粘土かこんにゃく程度の意志力と実行力しかもたないわれわれ「へたれ」による開き直り「計画論」であります。




実は、こんなことを書こうと思ってキーを叩いたのではないのです。今回は


「イメージする」と「イメージが浮かぶ」は別ものだという話を書くつもりだったのです。


でもいいのであります。イメージの話を書こうと計画したちんぴらの私より、計画の話を書いた兄貴分の私の方が偉いのですから。ははは。