選択・制限のちから 脱へたれ

もともと実行力のある方々の言うことを、それをもたないへたれの私が聞くべきではない。


プラン・ドゥー・チェックなどその典型である。


新型TY式生活改善法のおかげで早起きができるようになった。あらかじめ上げておいた項目は、毎日習慣化され、実行できるようになった。


齢51にして、ようやくやりたいことを実行し、続けたいことを続けられるようになった。実行力がつきつつある。



実行力って何だと振り返ると、着手する・継続する・改善するのことだった。


へたれは着手することができない。着手しないものが継続できないし、ましてや改善することなど不可能である。まだやっていないんだから。


着手のコツは、選択化であった。ある一つのことをやるぞ、などと決めるといつまでたっても着手できない。着手できないことがまたストレスになり、自信を失わせ、気力を萎えさせる。


それをやれ、それをやれ、それをやれ、と自分に命令する繰り返しでは、まだできてませんが浮き彫りになるだけであった。


やればいいなあ、ということは複数ある。だからそれを並べておく。ならべておいて「どれをやる?」と自分に聞くと、「これやります!」とあっさり始めやがるのである。着手できないで悶々としていた自分は誰だったのかと思うぐらいにあっさりと。


書き並べたものを、「どれから」やる?ではない。微妙だけれども「どれをやる」と「どれからやる」は違う。どれからやるだと、前提に「全てをやり終えなければいけない」という縛りがある。そういうものを持ち込むとへたれはとたんに萎える。


やり終えなければいけない、ということを前提にしない。かわりに「1分以上はやっちゃだめ」などの制限をつけるのである。


1分たったら、「じゃあ次は何をするの?」と聞くと「これやります」とさっさと始めるのである。


これをくり返していくと、複数の「もともとやりたいと思っていたこと」に片っ端から着手できてしまう。


並べたものへの着手が全部終わってしまう。


全部終わってしまったら、どうなるかというと、そこには1分だけ手を付けた実に中途半端な処理事項・習慣化事項の山がある。それを全部片付けようとしたら、またまた萎える。


そこで、「じゃ、今度は2分だけならやらせてあげる」


という制限を付けてしまう。すると「ぜひ、やらせて下さい」という回路が作動する。ほんとに作動する。


強制すればやらないのに、着手後に「制限」をかけるととたんにやりだす。


以下、制限の枠を増加させながら、続けていくと完了させたいものが出てくる。でも、使える時間は無尽蔵にはないので、列挙したものの中から「あんたは、今日はここまで」という具合に強制終了させるものを選ぶ。


すると、ふだんはあんなにやらないくせに「あーあ、やりたかったなあ」と多大なる未練を残してその項目はカットされる。


そんなふうに扱うと、やりたいことに着手でき、継続できていく。まだ続きはあるけれど、今日はここまで。


プラン・ドゥー・チェック以前につまずいてこけているのがへたれなのである。そんなの絵に描いた餅である。