18年前の今日

18年前の1月17日。妻は麻名を産んで一ヶ月。和歌山県有田郡の実家へ帰っていた。


当時はヨガの指導員をしており、男性の後輩を呼んで合宿とふれこみ、早朝5時起きでヨガを済ませ、台所でお茶を沸かしているところに、震度6はやってきた。


伊丹城の城郭都市の北のはずれあたり、伊丹丘陵が北へがくっと落ち込むところにある8階だてのマンションの6階。ゴウワゴウワゴウワゴウワという地鳴りなのかビルのきしむ音なのかがずっと聞こえていた。


起こったことがあまりに理解を超えるものだったので、ヨガで開脚したまま固まっていた(らしい、あとで聞いた。すぐに停電したので様子はわからない)ヨガの後輩をの古市君に

「これ地震やんな」


と声をかけた。40秒ぐらいは続いていた揺れに


「もうすこし大きく揺れたら、コンクリートでのマンションやけど折れるわな」


と思ったのを覚えている。幸いにして周辺も含めて倒壊したマンションはなく、我が家もX型の亀裂は盛大に入った棟もあったが、大規模補修程度ですんだ。しかし、そのあと「あともう少し大きく揺れたらコンクリートの塊のはずのビルやマンションが容易に倒壊するものだという現場を嫌ほど見ることになる。


暗い部屋で夜が明けるのを待つ。古い瓦屋根はいずれもぐちゃぐちゃで、古い土蔵の白壁がごそっと崩れ落ちており、駅の方に白いキノコ雲が上がっていた。鎮火した火災だと思っていたが、崩壊した阪急電鉄伊丹駅だった。


車を出し、尼崎の実家へ、古市くんのアパート、ヨガ道場の本部と回って行く。表通りを走る限りでは、屋根や壁は大きな被害を受けていても、倒壊している建物は伊丹駅以外では見当たらず。迷彩服でバイクに乗った自衛隊の偵察隊とはすれちがった。


父親と二人でいるとばかり思っていた実家の母は、祖父が入院したために、親父は大阪の祖父宅に泊まっており昨夜は一人だったらしい。古市くんと二人で大きな家具をどんどん起こしてセットし直すと、涙を流して喜ばれる。


片付けながら屋内の惨状を写真に撮る。大阪でさほど揺れなかった親父は、母親とは体験の温度差があり、3日後に電車が走り、祖父がが落ち着いてから片付けの進んだ我が家に帰宅した父は、のんきな言動で母親と少しもめたらしい。


その後に写真を見ることで当日の大変さを理解したということだ。

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震災から一ヶ月後、整体を仕事にしている友人が、東京から整体仲間を連れて関西入りし、我が家を宿舎に芦屋の武道館で活動する。その時点では足湯の手伝いぐらいしかできなかった私は、受ける人の背骨や気を読んで今のその人のダメージに沿って的確に施術していく友人の整体を見て、なんとしても身につけたいと痛感した。


その年の秋から整体の勉強を始めることになる。阪神大震災の時には、友人が整体に来た時以外は、それこそ自転車でもいける距離に軒並み倒壊家屋のある地域があるのに、まったくからだが動いてくれない。情けなくってしかたがなかった。


自宅前の幹線道路には、震災後すぐから全国のナンバーに「災害救援」の張り紙の車がずっと列をなしていた。ありがたくて泣けて泣けてしかたがなかった。なのに自分は動けない。


もともと独立を目指して退職が決まっていたのを震災で伸ばしていたので、年末で退職。フリーになった正月にこんどはナホトカ号の日本海重油流失事故が起こった。こんど行かなかったら一生後悔を引きずると思い福井へ。そこで岡山の俊さんやバウさんと出会い、黒澤さんもここで初めて見かけ、神戸元気村とご縁ができたのがつながって、助さんとも知り合い、一昨年の石巻の絆へとつながったのである。


18年前の今日。今やっている仕事も活動も原点はすべてこの日にある。