物づくり感覚が体育には必要だ

ものづくりや職人仕事の世界で生きる人が、仕事に傾けている感覚で整体をしなくてはと思う。


ものづくりは、シビアだ。シビアだというより現実当たり前だ。


なんてったってその仕事の結果としての製品がある。形になったものがあるから上手いか下手かなど一目瞭然。仕事が遅ければ数がこなせず、腕が悪けりゃ売り物にならない。


仕事として始めたならさっさと「売り物になるレベルのものを作れ」」ということが求められ、同時に「稼ぎになるだけの分量がこなせるという量(仕事の速さ)へのチャレンジをしなければ食べていけない。


「一生懸命努力しています」とか「自分としては良くなってきたと思います」なんてのは関係がない。質と量がともに足りているかいないかである。足らないものは足らない。できていないものはできていない。



こういうものづくりの感覚で、町工場の一流の機械工さんとか一流の職人さんのような感覚で身体を語る「からだ・体育」の人はあまり知らない。


体を通して表現されるものは、なんせ形がないから、基準があいまいというかない。音楽なんかだと、歌や演技だと下手でも人気は全国レベルもありうるし、その逆もある。


日野晃先生は、町工場の親父さんのような感覚で身体を語る珍しい方だ。だけど、こちらがほんとうだと思う。

たとえば本日の日野先生のブログ


http://blog.ap.teacup.com/applet/hinobudo/20130423/archive


こういう感覚で進んでいければと思う。整体も進化体操も。