あの日の松島の放送されている裏で

日本全国に、TBSの「空飛ぶ広報室」最終回「あの日の松島」が放映されているころ、神戸の六甲のサラシャンティでは、「あの日からの石巻」が語られていました。(前回のブログのやつね)


なすすべもなく飛行機が流されてしまった松島基地。基地司令は、規則で人命救助活動以外では民有地に立ち入れない自衛隊員を、「基地からの流失物の捜索」というこじつけの名目を付けて、隊員達に民家のがれき撤去、泥だしなどに従事させたという実話に基づいたストーリー。


この話自体はとても感動したので、このブログの

空飛ぶ広報室


http://d.hatena.ne.jp/meuto/20130415


にも書いた。


私も東北(や和歌山の水害)で多くの自衛官(もちろん警察や消防の方も含めて)多くの公務員の方々の献身的な活動と、少数ながらお話をして思いを目の当たりにしているので、それらにケチを付けるつもりは毛頭ない。まったくない。


しかし、公務員の限界はある。なんせ税金で働いているのだから。公平の原則に従い、計画に基づく予算があって上意下達の活動という限界がある。


この「その日からの石巻」をオープンジャパン関連のいろいろな活動に従事した方々から聞けた。


震災当日から東北に向かってとりあえず出発した四万十のとーるさんが、個人(四万十塾として)始めた炊き出しは、累計2011年8月末までに11万食にのぼった。


この日は参加されていないが、アースデー東京タワーのあきおさんらが中心になって、この日参加の岡山のユキオが長期プロジェクトリーダーをつとめた「写真プロジェクト」。がれきの中で見つかったどろどろの写真を、洗浄し持ち帰れるように展示。後にはデジタル化してデジタル検索できるようにまで持ち込んだ。その洗浄した写真の枚数は80万枚を超えた。


佃君が長期プロジェクトリーダーをいたのがサンライス石巻市内の全ての仮設住宅の、65歳以上の独居の高齢の方々に、全国の支援者の手紙付きの3キロのお米を手みやげに毎月訪問。問題や心配が発覚したら社会福祉協議会を通じて行政にゆだねる。その対象者は700名を超えたという。


東京の整体師村山先生がこつこつとお一人で避難所を回られていたのを、採澤君と二人で引き継いで、ボランティアセンターでせっせとリクルートに精を出したら、いつのまにか美容師理容師大工さんまで抱えるしっかりとした「避難所サポートチーム」になっていき、なべちゃんやミホちゃんがつないで地元の今野さんに引き継がれている「リラクゼーション」活動は、当初の2ヶ月強で、東北二県をまたいでの活動になって、その施術総数は5000人を超えた。


最初から組織があった訳じゃない。個人がごく少数が始めて、賛同者や協力してくださった方が現れて、つながってつながって続けていった活動だ。


上記の活動には当初目的を終えて終了しているプロジェクトも多いけれど、後発で今も続いているのがタケちゃんの「カーシェアリング


2011年の4月に発案された。神戸にいたタケちゃんは、資金も人手もない中で、関西の一部上場企業の秘書室に電話して「社長にお伝え下さい。東北でカーシェアリングをしたいので、車下さい」と言い出すところから始めた。


当たり前だが、最初は断られ続けた。でもタカラ物流さんの社長さんが「軽に乗り換えようと思って廃車にする予定の車がありますから提供しましょう」と申し出てくださった最初の一台を皮切りに、この2年で合計70台以上、現在も現役で56台が、何人何世帯が共同で使える仮設住宅の足として走っている。


ちなみに、今では駐車場のタイムズなどで「カーシェアリング」というのをよく見る。これは企業のビジネスとしてのカーシェアリングである。タケちゃんが始めるまで、純粋な民間・住民だけの手によるカーシェアリングはなかった。ないから、警察か国やらと何回も打ち合わせ、折衝、交渉をして切り開いてきたシステムだ。


こうやって形になると行政も動いてくれる。ユキオの写真プロジェクトも何万枚もの写真を洗い、企業などの支援を得てデジタル化を進めるという形を経て、石巻市は写真の展示専門コーナーの提供や施設の提供をしてくれたそうだ。


カーシェアリングでも、何台もの仮設カーシェアを実現させて軌道に乗り、さらに運営スタッフとして地元の方々を抱えるような形になるまで形になると、市は仮設住宅の一室をカーシェアリング運営事務局として提供してくれることになったという。


くりかえすけれども、多くの公務員の方々の献身的な活動と、復興にかける熱い思いは目の当たりにしているので、それらにケチを付けるつもりは毛頭ない。まったくない。


けれども、時として有給であり、人員や装備はとりあえずあるし、予算の裏付けのあるそれらをうらやましく思ったことがある。


今日紹介したオープンジャパンの活動は、実際の活動実績と活動している個人の信用で、人とお金をなんとかやりくりして奇跡的に続いたようなもの。そしてそれらはたまたま私の視界の中に入ってきた活動で、石巻以外の多くの地で、献身的に自腹を切って活動をした多くの方々がおられることは言うまでもない。


行政には行政の限界がある。計画があって予算があって、公平の原則があっての活動になる。だから現場や実情とは合わない施策も多々あったりする。それを現場の実情に少しでも近づけようと、さらには行政が支援させるを得ないところまでの形を作るべく今も活動する仲間がいます。

オープンジャパンHP

http://openjapan.net/

私は私のご縁からオープンジャパンの仲間と活動し、今も支援する関係にあります。みなさんのご縁のある活動がありましたら別ですが、特にというのがなければ、上記HPをご覧になって、被災地の今を知っていただきたい、さらにはご支援の手を頂ければさらに嬉しく思います。


7時から始まった会ですが、濃密な中身で10時前までのロングランとなりました。サラシャンティの清水さんご夫婦、上記の発表者5名、め組で震災直後から石巻入りしていたちーやん、8月にはアッシュ婦人となるふーみんら10人ほどで飲みに。そのままタケちゃん、とーるさん、ユキオと私はサラシャンティの道場で雑魚寝。


なんか、2011年のベースに戻った気がしたわれわれだったのでした。