吉村誠司さん、フィリピン台風被害 復興支援活動の報告会を終えて

いつもお世話になっている神戸の六甲サラシャンティさんから、「助さんの報告会のことをサラシャンティの会報に載せたいので、書いてほしいという依頼を頂いた。推定数百人の方に助さんの活動を紹介するので、二つ返事で引き受けました。


で、書きあがった原稿というのは、島の名前も現地の地名も日付も人員数も吉村さんのプロフィールもことごとく記憶にないかうろ覚え。あやふやなところに〇や×でしるしを入れたら、文中〇〇〇や×××などの伏字のオンパレードで、「昭和発禁背徳文庫」のようになり、とても人様に出せるものではなくなってしまった。


そこで、帰国後日本各地で報告会をし、今まさに石巻で別のプロジェクトの打ち合わせ中という超多忙な吉村さんに電話をし「今日が締切なんですが、この原稿では到底人様には出せないので、伏字を鋭意正確なる文言に訂正の上、送り返してほしい」と強制的にメールで送り付けたら、ものすごく面白い、中身の分かる原稿になって返ってきました。


サラシャンティさんの会員のみなさんと、私のブログの読者はダブる人もそう多くないし、支援の輪は大きく広がる方がいいので、ここに転載させていただくことにしました。


そこで道場スタッフの広告宣伝およびWeb情報発信部門担当のつっくんに写真の選定ないし貼り付けを依頼したら、私が最初に書いたものとは似ても似つかぬとてもいい「助さんの活動報告」ができました。ご協力いただいたお二人に感謝。






「吉村誠司さん、フィリピン台風被害復興支援活動の報告会を終えて」

新大阪健康道場 津田啓史



フィリピンに未曾有の被害をもたらした11月初めの台風。


6千人が亡くなり、2千人近くが行方不明、そして430万人が家を失った。


いくつもの島からなるフィリピンのパナイ島。その南部にビリアフロアという集落がある。漁村だ。常夏の国だから竹や細い材木にニッパヤシの葉で屋根をふいただけの簡単な家屋。台風の強烈なエネルギーにはひとたまりもなく、多くの家屋が屋根を飛ばされ、家が傾いた。


人口4000人の集落のうち、被害がないという家は10%にも満たなかった。


そこへ日本人ボランティアが来るという話があった。そして台風後2週間もたたないうちにその男はやってきた。



吉村誠司48歳。教会の支援者が卒業して牧師としての仕事で初任地としてパナイ島に赴任する時、日本からの訪問団で19歳の時にフィリピンへ行った。その際に、前年の台風被害の支援要請があり、ワークキャンプを計画し、フィリピンへ何度も訪れていた。


阪神大震災の時、国分寺市の最年少市議だった彼は神戸へとかけつけ、救援活動を開始。神戸元気村に合流して副代表として国内のみならずさまざまな災害救援活動に「いの一番」に駆けつけ、活動している。ちなみに筆者は、ナホトカ号の重油流失災害で神戸元気村の方々と知り合い、その流れで吉村さんと知り合いました。


台湾地震・中国四川省地震鳥取西地震中越地震…。災害の救援活動のみならずイラク戦争開戦を止めるべく「人間の盾」となりに現地へ赴くなど、さまざまな活動に従事している。


東日本大震災も当日に即座に機材を積んで東北入りし、被災後1週間で石巻を拠点とする過去の災害救援仲間の結集する「ボランティアベース絆」(現・オープンジャパン)を立ち上げ、石巻に多数終結するさまざまなNPOや個人ボランティアが相互協力できるしくみ・のちの「石巻復興支援協議会」(現・未来サポート石巻)につながるNPO連絡会立ち上げにも奔走する。


日本の災害救援仲間は彼を「助さん」と呼ぶ。「いわれ」は知らないが、あらゆる現場の助っ人の中心として機能する人だから、まさに助さんである。


そして、今回のフィリピンの台風被災地救援にも駆けつけました。今回は、4島(パナイ、セブ、レイテ、バンタヤン島)を視察したり活動したりしたのですが、今回の「活動」の中心になった島の話です。


島の名前はパナイ島。助さんは、でっかいトレーラーに山のように竹を積んでやってきた。屋根になるシートも100軒以上の屋根がふけるだけの分量のロールを積んでいた。釘などの道具も、チェーンソーなどの動力器材や発電機まで用意している。


それだけではない、道具付の大工さんも9人引き連れてきていた。さらには200キロも離れたビリアフロアの町で「現地で何か役立ちたい!」という思いでじりじりしていた学生やボラ達32名まで引き連れてきていた。


もともと竹の柱の家がたくさん建っていた地域。地元の人にもノウハウはある。道具はある。釘もある。大工さんもいるし、大がかりな力仕事には学生パワーが完備している。



たちまちにして一日に数棟の家が建ち始めた。応急の仮設住宅ではない。もともと住んでいたような家が(まっ、屋根はシートだけど)毎日数棟、駆けつけたボランティアと現地の人たちの協力でできあがっていくのである。


45度傾いた家があった。「起こしたら住めるかもしれない」と助さんは学生たちに呼びかけた。根拠のない話ではない。中越地震や東北の地震の際に、もっと重たい傾いた神社仏閣を引き起こして再建するプロジェクトに何回も立ち会っているのだ。学生たちでわっせわっせとひっぱったら、ほんとにその家、大丈夫な角度で再建した。などなど。





それが被災後2週間後のことだ。フィリピン国内でも異例の早さらしい。それを国外からの段取りで準備し、入国して4日後には稼働させている。


もともと二十数年のフィリピンの人たちとのお付き合いもあり、過去のフィリピンの災害に駆けつけた経験もあり、教会のコーディネートもあり、過去の災害で知り合いフィリピンで働く日系建設会社の日本人社員の方などの協力もあったと聞く。それにしても早い。現地にフィットしている。すごい。


大災害のあと、多くの募金が街に立ち、テレビで呼びかけられ、電話で寄付できたり郵便局で受け付けてくれたりする大きな団体がある。安心だからと名前の知れた団体に寄付は多く集まる。しかし、大きいところほど小回りがきかず、公平にまんべんなく配分しようとするから動きは遅くなる。(もちろんそういうのも必要です。)


でもね、もしもどこかに寄付をと考えながら、すぐに役立ってほしいという思いのある方は助さんに託しましょう。第二陣は12月18日ごろ出発と聞きますから、年内には確実に形になって現地に届きます。その際にはすでに5人の日本人同行者が名乗りを上げているそうです。


助さんは、次の支援の形として「シェア漁船」を考えています。現地の漁法には船一艇で数家族が協力しておこなう「追い込み漁」があります。15万円ほどあれば一艇の「エンジン付き漁船」が買えます。それ1艇あれば、いくつもの家族が共同で使えます。



↑漁船大工の作業場の様子



もちろん、支援の形は現地の状況に応じて変わりますからこれとは違う素晴らしいアイデアが浮かぶかもしれません。でも、被災者の自立する方向に向かっての支援を助さんはかならずやってくれます。


報道はすぐに風化します。でも復興は一歩ずつで、それは人が動いた分だけが進みます。


ぜひのご支援協力をお願いする次第です。


※この原稿を書き終えた後で助さんからメールがきました「漁船2艇注文しましたー!」


現地の方々の笑顔が目に浮かびます!




・・・・・・・・・・・・・・・
ご支援協力は下記にお願いします。
・・・・・・・・・・・・・・・

◎郵便振替口座 00980−7−264796

「ヒューマンシールド神戸」

通信欄に「バンブー、漁船プロジェクト」と明記ください。また、現地への渡航費や国際電話など事務局費も募集中です!

三菱東京UFJ銀行 明石支店 普通4576874

「ヒューマンシールドコウベ」 


助さんの活動は
http://williamseiji.wordpress.com/
「ヒューマンシールド神戸」で検索!

のホームページで見ることができます。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・


新大阪健康道場ホームページ
→ http://tsuda-seitai.petit.cc