だから集中力は身につかない

集中力をつけようと思っている際の勘違いって何だろう?

勉強でも仕事でもスポーツでも芸術でも「集中力が大事だ」と言われる。


最近事務仕事やPCワークも量がはかどっている。ありがたいことである。進化体操も、没頭して長時間やり続ける度合いが高くなっている。つまり集中力が発揮できている状態である。

うまくいっているから、ふと感じた違和感がある。

「集中力を付けなければいけない」という文脈で語られる時の「ちから」につける名前として「集中力」という呼び方がふさわしいのか、という疑問である。


筆者の仕事がはかどっていると書いた。必要な分量のデスクワークや原稿執筆がこなせる日が多いという意味である。


そこで「集中力」の登場である。

集中力というからには、一つのことに集中している力、集中できる力である。一方で筆者のデスクワークというのはものすごく細かい。発信したい情報ごとに分けていったらブログは5本あるし、メルマガは4本ある。個別で整体を観ている人とのやりとりもあるし、講習会の受け付けなども自分でやっている。手を付けると細かい仕事がものすごくたくさんあるのである。

一つのことだけに没頭していたのではまったく進まない。なのでこまごまとある仕事をさらにものすごく細かく分けた。まとめたのではない。さらに分けたのだ。

そそしてその細かいひとつひとつがさらい部分的にでも進んでいくようにしたら、ようやく量がこなせるようになったという実情がある。分割した細かい公私ともどもの用事を数えたら一日に100を超えている。


だから、仕事がはかどるようになった状況にふと気づいて、

「集中力がついたなあ、、、んっ、これって集中力と言っていいんだろうか?」

一つ事に集中してないじゃん、というわけである。

一つことに着手してふっと気がそれたらそこまでにして、できそうな別のことにさっさと乗り換えて持続するようにしたら、仕事がはかどったのである。単純な集中力ではない。敢えて名前を付けるなら

「集中状態連鎖的持続力」である。

「集中力をつけなきゃ」という日本語で考えると、一つ事に集中できないとその時点で失敗である。

集中状態連鎖的持続力というネーミングであれば、はなからいかにして継続させるか、持続させるかという部分が視界に入っている。

だいたい集中力が問題になるのは「途切れた」り「続かない」時である。つまり集中できないということよりもそれを続けられないということで困っているという文脈で用いられることが圧倒的に多い。すくなくとも私はそうだ。

禅僧や瞑想家のように「ただひたすらほかに何もしないで一人でやる」という人なら別だが、そんな状況よりも「やらないといけないことはたくさんある、次々に押し寄せてくる」という人の方がこのブログの読者にも圧倒的に多かろう。

すると、やはり必要なのは集中力ではなく、連鎖的集中状態反復継続力である。次々にあらたな対象に必要量集中するという行為を、繰り返すことのできる力量が問われるのである。

集中しなきゃ、という設問に対する工夫と、繰り返しの集中回数を何回まで伸ばせるかしら、という設問では答えは変わる。全然違う。

あくまで私の場合は必要なのは「個別事項連鎖的集中状態反復継続力」である。(なんか最初と名前が変わってきた)



あなたにとって集中力(あるいは必要な力の名前)の名前を実態に合わせて変えてみれば、対処法はおのずと見えてくるのではないでしょうか?

自分に必要な状況になんて名前を付けるのか?

そこはご自分で探しなはれ。


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