順番が違う 先人の教えの身に付け方

集中力をつけようとする時の自分がいる。実際に集中できた時の状態がある。実際にできてからその景色を見て見ると、予想していたものとは違った。


私が「こういうものだ」と思っているものは、少しでも身についてくるとことごとく見当はずれである。


今「見当を付ける」と書いて、まさしくこれがあかんのやと気が付いた。


できない私がつけた見当が、ほぼ確信をついている可能性はほとんど低い。ないと考えた方がいい。私の見当と先人の精進の結果がかぶっていると考えるはなんという傲慢さだ(笑)


だけども、何らかの見当がないといけない。第一歩がないと進むことはできない。


だから見当をつけるのだけれども、それは「たぶんこういうことだろう」という見当であってはならない。そこが正解である可能性はほとんどないが、それをどちらに動かした時に、正解または得たい状態に近づくかを探すために仮に置くだけである。


たとえば、心身を統一すると、押されてもびくともしない、ということを心身統一合気道藤平光一先生が示されている。臍下の一点(一般に言われている丹田よりもやや下)に無限に心を集中しているとそうなる、と説かれている。


レベルの高低はあるけれども、そうやるとたしかにやらない時よりも強くなる。知る価値はある。


けれども、こちらのレベルは低いレベルで伸び悩む。藤平先生の教えは(こうやればこなるという指摘)正しいけれども、私の取り組み方は適切ではないということである。


何故伸び悩むかというと、藤平先生指摘の一点を正しくとらえているのではなく、たぶんこのあたりだろうと独り決めして、あとは集中したつもりになっているだけだからだ。たぶんずれているのだ。集中の密度も足りないのだろう。

進化体操の一人練習のために、床と触れあっている足に感覚を落としていくという練習をしている。


ひらたく言えば「どっしりと重心が落ちた状態をつくる」のである。


どっしりと重心が落ちて、びくともしないだろうと思っている状態を作る。しかし人に押されると簡単に崩れるし、無表情を装っても内面は完全に動揺し、平常心は崩壊している。


取り組む方向性を変えてみた。重心を下げようと思うのではなく、床下何センチの一点を意識した時に、もっとも安定した感覚が生じるかという練習方法である。各段にうまくいっている。


人により20センチぐらいから、50センチを超える人までいろいろである。もちろん正確に床下にメジャーを伸ばして測ったわけではない。本人の身体に確かに安定するという結果が出た時に、本人が35センチと感じる。35センチを意識すると確かに望ましい変化が生じる、とりあえずそれでいいのである。


重心が上がるよりも下がる方がいい。腰を落とせとか重心を下げろということもたぶん望ましい方向性を指している。だからといって自分が「これが重心がさがった状態だ」というものを先に作らない。


どの重心点と結びついた時にもっとも「重心を下げた」と言ってもいい状態が生まれたかを探していく。こういう取り組み方が先人先達の教えを活かして使おうという時に効果的である。

実際の動画で見るとこんな感じになります。


http://ameblo.jp/sinkataisou/entry-12047290125.html


一番最後と一つ前の動画です。


正解だと思っているものを先にやってしまうと、変化は訪れない。はずれだと承知の上で仮置きして、そこからもっとも望ましい変化が生じるものを探していく。こういう順番なら凡人が先人に近づいていける可能性は高くなるようである。