感覚の体育と筋肉の体育1
新しく「感覚の体育」というような方向性が浮かび上がってきた感じがする。
「筋力、瞬発力、筋持久力」という体育のとらえ方は分かりやすい。
なんのための体育があるかといえば、より快適に生きるためだと言える。よりよく生きるために「体を育む」。
生きるというのはどういう現象かと考えていくと、他者とかかわるこという一面が圧倒的に大きいことが分かる。他者の中には気候や環境から動物、人、道具、食べ物など多様なものがある。そういった他者への反射反応対応、それらの優劣が生存の快適さを増減する。
高温低温乾燥多湿などに、発汗震え飲水などで無意識に対応している。熱中症なども対応が追い付かなかった場合のオーバーフローとしてとらえられる。
人間関係の質はストレスと多大に関係するし、道具の扱い方も効率や愉しみと比例する。同じ食べ物を食べても、痛んでいれば吐き出す、あるいはにおいをかいだだけで食べない、という反応の優劣で何事もない人と食中毒で倒れる人に分ける。
たいして栄養のないものを食べて丈夫な体にする人もあれば、健康食に囲まれて不健康な人もある。
やはり生きると言うことは、他者との反射反応対応のことととらえていい。
やけどをしそうになると、どんな人でも慌てて手を引っ込めるという万人共通の反応もあれば、ある人には天敵にように感じられる人が、別な人にはいい人のように感じられるなど個人差があるものもある。
手を付けるとしたら、個人差のある対象との関係改善ではないだろうか。
体育の中のメインになる「運動」ということを考えてみる。
頭で考えて体を動かすという見方は捨てた方がいい。実際には頭よりも体の方が先に動き出している。自分を動かしていると思っている意識は、多くの場合動きに遅れて命令した意識の記憶をつくってつじつまを合わせているということが脳の研究ではすでに明らかになっている。