感覚の体育と筋肉の体育 2

頭で考えて体を動かすという見方は捨てた方がいい。

実際には頭よりも体の方が先に動き出している。自分を動かしていると思っている意識は、多くの場合動きに遅れて命令した意識の記憶をつくってつじつまを合わせているというとしくみが脳の研究ではすでに明らかになっている。

とはいうものの、意識と動きがほとんど同じないし意識が先行している場合もあるのではないかと思っている。それは習いたてのスポーツなどにチャレンジする時のなんともぎこちない動きの時だ。

いちいち意識して動かすと、とんでもなく身体はぎこちなく混乱する。

対応力をつけるということがより良く生きるための体の基本ではないかと書いている。しかし、意識して対応しようとするとぎこちなくパフォーマンスは低下する。まともに対応できてないじゃないかということになる。

経験上どうすればいいかという問いに対しては、おおむね上達した対応の方向性を身体に依頼し、あとは実際どういう状態なのかということを、観察するような意識になった時、それまでよりも格段に上達する。つまり変化して対応する能力が上がる。

観察するには、物差しが必要である。基準と言ってもいいかもしれない。

そういうものがないと、良いも悪いも評価できない。だから行動の変化につながらない。

ではどういう物差しがいいかということになる。これは考えるまでもない。より細かい目盛りの物差しを当てるということである。

明るいか暗いかだけの物差ししかなければ、世の中は白黒写真になる。

動きの目盛りが強弱の二つしかなければ、対応できるものの幅はずいぶんと小さいものになりそうに思う。動きの強弱を十段階に分けて感じることができれば、より細かく身体の各部分を連携させないと十段階に対応できない。

動くということは、とらえたデータへの反応である。


強弱だけしか感じていなければ、より細かく繊細に全身を連携させる必然性が生れない。

感覚の目盛りは強弱という単純なままで筋力を強化したとしても、それは単純な体の使い方を強調してしまうことにはならないだろうか。

武術の達人の方々が、ことごとく単純な筋力強化運動を否定され、技は極力力を抜いて行うように書かれてるのも、そうしないと目盛りの細かい物差しを当てられないからだととらええるとつじつまが合う。また、細かい目盛りでよみとった繊細な身体の運用ができないからだと考えてもつじつまがあう。

そして筋力の体力だと若い時だけしか活躍できなくなる。感覚の体育を磨いていくと、年齢、年季とともに、どんどん物差しの目盛りが細かく洗練されて行く。だから無理や不合理な動きが排除され、高齢になっても高いレベルの動きができるということとも一致する。


高齢者スポーツというような言葉がある。今は体力が衰えた高齢の方がマイペースで楽しむスポーツという文脈で使われることが多いと思う。

進化体操・整体などで「感覚の体育」を実行する人が増えていき、何十年か先の「高齢者スポーツ」ということばの意味が変わってしまっていることを願う。

「若者にはとうてい太刀打ちできない高齢の方々の繊細で華麗でハイレベルなスポーツの境地」というぐあいにね。


▼△▼△▼無料メルマガ▼△▼△▼
「進化体操&とろける整体 新大阪健康道場メルマガ」

ご登録は、下記リンクからどうぞ!!
http://sinkataisou.net/neo/usrctrl.php?mag_id=6