295話 親バカ 2

また別のささやきが、そこにかすかに重なるのである。

「落ち込んだ気分が取れたら、眉間のしわが取れてすっかり顔が若返ってしまったと人に言われたのですわ、ひそひそ」

というような会話が

「落ち込・・気分が・・たら、・・のしわが取れて・・・顔が若返って・・ったと人・言わ・・のですわ、ひそひそ」

というふうに耳に届いただろうことも容易に想像がつく。

そういう重複した気になるささやきが、臨席する父兄お母さま方の間に、さざ波のように広がっていったであろう。

内田樹先生という神戸女学院の先生がその新著「先生はえらい」の中で喝破しているように、人は割り切れるもの、理解できるものに金銭の投資をするのではなく、わけの分からなさ、割り切れなさに対して、金銭の投資を惜しまない、という心理的傾向がある。

今日のこの長男のカミングアウトならびに、会場のささやきによって、臨席する父兄お母さまがたの間に「ひろ君のお父さんはすごい整体をする人」という割り切れないくさびが打ち込まれるのである。

ここで訂正が入る。前の日記で「お父さんのような立派な」と書いたが、実際には「父のような」という表現だったそうだ。ますます表現のグレードとしては上がる。

さて、うわさはうわさを呼ぶ、という人間関係上の法則がある。さらに「うわさに尾ひれがつく」という人間関係上の法則がある。つまりこの日会場を後にした父兄お母さま方は、帰宅後卒業式の話を家族にするであろう。そこで「印象深い出来事」として長男の「少年の主張」が付け加えられるだろう。

すると、そこに尾ひれがつくのである。耳にしたささやきが誇張されて加わるのである。そういう作業が加速度的にくり返されるのである。

およそ2週間もすれば、私は「伝説の名人」「類い稀なる技量」「希代の超一流」である謎の整体名人という評判が市内全域に広がるであろうことは自明の理である。

うわさが飽和状態になった時に、そこに行動がうまれるのである。我が家の電話は予約が鳴りやまず、マンション前には行列ができるはずである。

はずである。

惜しい。実に惜しい。

その2週間後には我が家はすでに伊丹にはないのである。私は兵庫県民から和歌山県民になっているのである。

実際には、新大阪の道場に来てもらえれば問題はないのであるが、こういううわさの特徴として「新大阪に道場がある」といううわさは決して広がらず、「伝説の名人は和歌山へ行ってしまった」といううわさだけが広がるのである。

きっとそうだ。