300話 川の話 1

2日。

平日ではあるが、休みである。午後、車で紀ノ川に沿って走る。近いうちにカヌーで下ろうと思っており、その下見である。

幼少期を過ごした家が川の横であったためか、川が好きである。きれいな川を観ているとぜんぜん飽きない。「南国リゾート、珊瑚礁の海」なんていうのも「きれいだな」とは思うが、心の奥底は揺さぶられない。「四国清流探訪 四万十川の旅/夜はかつおのたたきとサーチ料理」とうたわれると、心の底と胃袋の両方が震度7強で揺さぶられるのである。

あなたは海派か川派かという全国国勢調査があれば、迷わず川に一票投じる覚悟である。

だいたい、海は大きすぎるのである。

♪う〜みは 広いな 大きいな〜
  月は沈むし、日はのぼぉるぅ〜

まさに天文学的な大きさではないか。人はその身体感覚に沿った大きさのものしか、感じ味わうことはできない。一方川はどうか。

♪はぁるの 小川は さらさらゆくよ
  岸のすみれや レンゲの花に 
  姿やさしく 色美しく
  咲けよ 咲けよと ささやきながら

まこと等身大である。まったく天文学的な距離感とは無縁である。

まず「さらさら」がいい。「土手にたたずむ少女の黒髪が、川風に吹かれてさらさらとうなじに舞った」などの文脈で用いられるのがさらさらである。まこと健康的でもあり、ほんの微量官能的でもある。つまりカラダに響いてくる副詞である。

長塚京三フラバン茶だったかフラボン茶だったかのCMで「継続はさらさらなり〜!」と血液の浄化された状態を表現する文脈で叫んで用いられるのが「さらさら」である。まことに健康的である。そのお茶を飲んでいない我が血液は、どろどろに汚染されているかのように錯覚してしまうほと健康的な「音(おん)」。それがさらさらである。

そういうきわめてカラダの快適な感覚に用いられる「さらさら」が似合う「川」というものは、やはりそれだけカラダの快適な感覚にマッチするものであると断定していいと思う。

しかし、こういうことを書いていて全国の海の男を敵に回して、「津田には海のものは回すべからず」という回状でも回されたら困る。うまい刺身が食えなくなるのも困る。紀州特産、「釜揚げしらす」を白飯の上にかけてはふはふと食べる楽しみがなくなっても困る。そこで今日の結論としては

海もいいなあ、川もいいなあ、どっちもいいなあ。でも家に近い分だけ、ちょっとだけ川の方が好きだなあという、まこと優柔不断で曖昧な日本的決着を結論としてこの項を終わるのである。


※健康道場の日々の雑感をつづるはずのこの日記であるが、健康道場の気配のないよた話が圧倒的に多く書かれたまま、300話まできてしまったのである。よくわからないがやはりめでたい。

1000話までは続けるつもりである。読者諸兄諸姉の変わらずのご愛顧ご愛読を請うものである。

励ましのお便りなどをいただくと、筆者舞い上がって喜ぶものと思われます。