301話 川の話 2

海がいいか、川がいいか、という論争の続きではなく、昔はもっと川と近い生活をしていたのだよ、という論旨に切り替えて川の話が続くのである。

今を去ること35年〜40年前、私が子どものころは、子どもはもっと川で遊んだのである。そこで多様な水の生き物たちとふれあったのである。

その前(筆者より年長)の世代はおそらくもっともっと遊んだのである。さらに明治や江戸期では、川は飲料水であり生活水であり、貝類や川魚などの食料を得る場所であり、人や物資を運ぶ交通路であった。

大阪は淀川水系で考えれば、「大阪市水道局」と「下水道局」と「スーパー玉出 生鮮食品売場鮮魚コーナー」と「道路公団 阪神高速公団」などを兼ねていたのが川なのである。


13年前にカヌーを買い、近所の武庫川の静水で何度か練習した後、いよいよ「川下りデビュー」をすることになった。そのおりに私が迷わず選んだのは「伏見から大阪、淀川下りルート」である。


だいたい、「淀川」と聞いても、「カヌー」で下りたい!というカヌーイストはごくごく少ないであろう。清流にはほど遠い。

「五月雨を集めて速し、最上川」を下りたいカヌーイストはいるかもしれないが、滋賀、京都、大阪の三府県の「廃水を集めて汚れし、淀の川」は余り魅力的ではない。全然魅力的ではない。私の持つカヌー川下りコースガイド4〜5冊にも、このコースは載っていない。

しかし、やはり「初下りは伏見〜淀川」なのである。

「伏見〜大阪 淀川ルート」

2005年の今の目でみると、何の魅力もないルートである。しかし、今をさかのぼること百余年。明治維新の昔をたどれば、大阪と京都を結ぶ、超重要交通路であったのである。幾万の旅人が、志士が、この川を船で上り下りしたのである。

我が敬愛する坂本竜馬が、国事に東奔西走する際に、頻繁に登場するのがこの川筋路線なのである。

そして、伏見にはかの坂本竜馬が定宿としていた船宿「寺田屋」が現存している。竜馬が襲われた時の(暗殺された時ではない)血痕までその柱に残っている。

坂本竜馬ゆかりの写真集などを見ると、寺田屋は、船着き場のまん前に建っている。、大阪から着いた竜馬が船を降りると「おお、お登勢さん、竜馬ぜよ」とのれんをくぐったのである。

歴史を好きな方なら「史跡めぐり」というのはされるであろう。地方都市などに観光に行けば、由緒ある名所旧跡を歩く、というのは定石である。こういうことは誰でもできる。さらにはそういう名所という「点」の確認ではなく、線でとらえようという歴史めぐりもある。「熊野古道を歩く」というようなのは最近ブームのようである。お遍路さんも最近徒歩でチャレンジする方が増えているとも聞く。

しかし、いずれも地上である。自動車と徒歩を組み合わせれば、ほぼ誰でも可能である。

しかし、「伏見寺田屋〜大阪 水上ルート」というのは、誰にも可能ではない。