308話 人は予測することで生きている2

大量に沸かす、ということはその日の必要量が少ない日は余る、ということである。余ってもお茶はお茶である。そのまま流してしまう、というような申し訳ないことはできない。しかし少量のお茶をやかんの中に残すということも不合理である。やかんにも次の出番に備えてもらわなければならない。そこで余った濃い麦茶も、早々にマグカップ大の大ぶりのコーヒーカップにお引き取り願い、そのままキッチンに置かれる。

この『やかんのお茶なりポットのコーヒーなりをコーヒーカップにお引き取り願い、そのままキッチンに置く。』という作業は100%家内によって行われる。したがって、その日キッチンに置いてあるコーヒーカップの中身が、麦茶かコーヒーかという問題は家内には存在しない。であるから、そのコーヒーカップに「麦茶です。ご注意下さい」などと張り紙をしないというのも、必然である。

ちなみに頻度は、「あまり麦茶」が登場するよりも、あまりコーヒーが登場する頻度の方が圧倒的に多い。原則としてほぼ毎日「あまったからいつでもどうぞコーヒー」は発生する。

つまり筆者は、キッチンに置いてある茶褐色の液体は、ほぼ100%コーヒーだと認識している。

そういう状況で、その液体が麦茶だったことがある。さめたコーヒー(だと思っている)から、おそるおそるなど飲まない。ざぶりと飲む。っと、あの時のまずさというのは、筆舌に尽くしがたいものがあった。おもわず吐き出しそうになった、というまずさだった。

しかし、筆者の灰色の脳細胞は、一瞬ののちに「これは種々の状況を分析するに、あまった麦茶だぞ」と状況を把握した。そして再度「これは麦茶よ、ちょっと煮出し過ぎた濃いめの麦茶よ」と思って飲んだのである。すると、その液体は「ちょっと濃いけど、けっこう美味しい麦茶」に変貌を遂げるのである。