312話 人は予測することで生きている6

コーヒーカップティーカップ。盃、ぐい飲み、ビアーグラスにジョッキ。湯飲み茶碗。はやりすたりに関係なく、その形状が固定化され今後変わりそうもない形状の「うつわ」というのは、その器に入れる飲み物を、「こういうふうに飲みたい」という体運動がもっともしやすい形状になっているものだと思われる。

ちなみに「コーヒー」というのは、「上あご系/日本酒ちびちび類似/味わい体運動」に属するようである。

麦茶というのは「下あご系/ビールごくごく類似/のど越し体運動」に属するとようである。

コーヒーだと勘違いして麦茶の濃いのを飲むというのを、体運動的に分析すると「下あご系/ビールごくごく類似/のど越し体運動」で飲まないとうまくないものを「上あご系/日本酒ちびちび類似/味わい体運動」で飲んでしまった、ということになる。

麦茶を盃でちびちび飲む人はいない。コップでごくごく飲む。つま舌の上で味わいたいという欲求は麦茶に対しては人は持っていないということである。それを味わい系の飲み方をしてしまった。予測と違う味を、もろに食らったのである。

これが私の分析する「なんでこんなにまずいの?」とうい事件に関しての分析である。


うつわを変えると、飲み方の体運動が規制される。盃はちびちびしか飲めないし、ジョッキはぐびぐびしか飲めない。ということは、飲み物のうつわを変えれば、味は変わるということである。

手っ取り早いのは、缶コーヒーをコーヒーカップで飲んでみる方法である。まったく違う味になる。

今回は「飲む」という行為と体運動を関連づけて考察したが、これは「味わい」と「体運動」の関係とも言い換えられる。

「味わい」は別に飲み食いだけではない。「人生の味わい」を深めるために、カラダの動きという面を今一度見直していただく一助となれば、幸いである。味わい方によって、味わうさいの身構えによって、うまくもまずくもなるのである。