326話 散髪

引っ越しの前後のころのこの日記に、「髪の毛を伸ばしている」という話を書きかけたが、その話が続く前に1年半ぶりぐらい?に散髪をした。すっぱりと切ってしまった。切ったというより刈ったのである。

なぜ髪を伸ばしていたかというと、サムライのちょんまげを結った場合の身体意識というのはいかなるものか、ということを体験したかったからである。

日本人の体文化というのは、地に向かうものが主となっている。それをカラダの面から見ると腰が中心になっている。日本人は引く力が強く、西洋人は押す力が強い、というようなことは以前から言われている。これをミュート的に分析すると、西洋人は上に伸びる体文化で、日本人は縮まることを主とした体文化だ、と言える。

この話の詳細は、ミュートネットワーク代表の河野智聖の「日本人力」BABジャパン社刊に詳しいのでぜひご一読頂ければ幸いである。

つまり、日本人のカラダにあるものは「理論よりも勘」「理屈よりも本能」といったものが優位にあるカラダの使い方や生活、服装などをしていた、というのが大筋の論になる。

しかし、江戸期の文化などを見ると決して「野蛮」ではない。本能だけで粗野かというと非常に優れた文化を残し、知的水準もきわめて高かったようである。これはいったいなぜだ?というのが疑問であった。

腰の帯を巻くことも、正座を中心とした生活をすることも野生や本能、勘を育てる方に働く。頭よりもカラダに効く。そういった頭よりもカラダに向かい、大地に向かう体文化の中で私が注目したのは髪型である。「男性は短い髪の毛の方が男らしい」というのはほんのこの100年ほどの話で、それ以前はずっと長髪だった。しかも男女ともをれを「アップ」にしているのが日本人の標準的な髪型だ。日本髪にちょんまげである。

だからその髪型が日本人の中に「野生と知性を共存させたのではないか」という仮説で、体験してみないと分からないので散髪に行くのをずっとやめていたのである。

きれいな髷にはならず、素浪人のような髷であったが、とりあえずどんな感じか、というのは分かった。それにきわめて暑くなってきた。ということで発作的に散髪をした。

反動というのは恐ろしいもので、一気に刈り上げてしまった。ぐるりと全て刈り上げ、上の方の髪の毛長くても三センチ。全てつんつんに立っている。パイナップルのような頭である。

髪の毛が長い時に、後ろをくくってもばさばさ落ちてくるのがうっとうしいので野球帽をかぶっていた。髪を切った後も冷房の電車内が寒いのでかぶっている。鏡で見てみると刈り上げてほとんど髪の無い部分だけが露出しているので、中年僧侶の野球チームの若手のような顔になった。