333話 感覚とは何だろう

今日も和歌山。そろそろ会報をがしがしと片付けないといけない時期になってきた。今日は原稿をすすめる絶好の機会。家内は外出で、「これこれこういう手続きのことで、市役所に電話して問い合わせておくべし」と硬く言い付けられたので、せっせと市役所に電話するが、5回かけても6回かけても何回かけても話し中である。これでは原稿にもとりかかれないと市役所へ。

用向きの窓口はなんと50数名待ちという状況。これだけ需要があれば、電話だって売れっ子アイドルのチケット電話予約に当たるようなもので、常に話し中状態に納得。

30分ほどの待ち時間を、市役所のイスに座り、ノートパソコンを例のアタッシュの上に乗せてぱこぱこと会報編集を進める。自宅にいてもぐたぐたとするのだが、こういう窓口50人待ちイスぎっしりざわざわ状態だと実に仕事がはかどる。

こういう傾向の人間を整体では「前後型体癖」(ぜんごがたたいへき)と言う。動いていれば元気なのである。やることがないととたんに萎える。コマのような人間である。止まったら倒れてしまうのである。そこで市役所を出ると、そのままロイヤルホストへ向かう。ランチタイムでにぎあう店内で、ドリンクバーだけを頼み、さらにぱこぱこと原稿を書く。店内はなかなかにぎわっているが、1時を過ぎるとOL風、ビジネスマン風の方々は出ていかれて、残るは主婦のグループミーティング組ばかりになる。それもひとつふたつでなく、4つも5つものグループが賑やかにランチとおしゃべりを楽しんでいる。

優雅である。つい最近「主婦は年中無休で大変だ」と書いたが「大変な主婦とそうでもない主婦もある」と訂正しないといけないなと思う。しかし、そのにぎにぎしいおしゃべりの活気は、そのまま我が指先に伝わり、さらに原稿が進む。

3時。Mさんのお宅に伺う。Mさんは交通事故で頚椎を損傷し、胸から下の感覚と運動機能が失われた方である。懸命にリハビリをして、つっかえ棒程度に動く右手とそれよりはもう少しましに動く左手という状況に持ち込み、大企業だったのも幸いして見事職場復帰を果たしている。

胸から下は皮膚感覚、痛覚もない。事故直後の入院先の大学病院では、地方都市だったので「頚椎の骨折」という症例が珍しかったらしく、医学部教授だったか助教授だったが「白い巨塔」よろしくぞろぞろと医大生を引き連れ、「この方は胸から下の痛覚が失われています」とぷすぷす針で刺されていたそうである。医大生も何人かぷすぷすと刺したそうである。もちろん医学の発展のためには必要なことであろうが、そこに「人間扱い」が欠けている。この教授も頚椎骨折したら、医大生にぷすぷすさせますか?医学の発展のために。

Mさん、最近肩がこる、というので一度観てもらえないか、ということで今日の訪問になった。そこであらためて自分が人の体に対して行なっていることを再整理、考え直す機会となった。

整体がいかに人に触れ合うかというと、手のひらまたは指で皮膚表面上に圧をかけ、気を通すという方法がメインとなる。Mさんは大雑把にみても、からだの8割は感覚がない。押さえても何も感じないのである。講座の最中など何気なく「気が通る」とか色々言っているけれども、それは一体どういうものを持って、そういう表現をしているのだろう、気感とは何だ?というようなことをあらためて整理して考える必要性と、そうすることによっての技術が進むヒントになりそうなそういうことを感じた。圧とは何だ。痛覚がどう作用しているのか。触れて気を通すのと触れずに気を通すのとの違いは・・・。

Mさんの家から少し遠回りだけど、和歌の浦景勝地を通って帰宅。