345話 露出面積よりも空想喚起力だ

前に「女子高生のスカートの中身を手鏡でのぞいてつかまった大学教授(裁判では本人は否認)」の話を書いた。

誤解をおそれずに言うと、この教授の気持ちも分からないでもない部分がある。おそらくこの教授は、長いスカートの中に手鏡を突っ込むというような暴挙は行っていないはずだ。「もうほとんど見えかけじゃないの」というようなミニのスカートを対象にしたのであろう。

前に「むき出しは味気ない」と書き、「空想には力がある」と書いた。

今朝、駅に向かう途中にも、女子高校生が「太股もあらわに」自転車で突っ走っていった。すると視線はやはりその布地で覆われた部分とあらわになりつつある太股の部分に行く。嫌でもいく。

しかし、ここで冷静に考えようではないか。ここで「枯れていない」男性に大挙集まっていただいてアンケートをすると仮定する。

ショートパンツでふとももむき出しと、ミニスカートの太もも。おもわず観てしまうのはどちら?っと実際にはやっていないアンケートだけれども、男性の心情として、後者に反応してしまう比率の方が圧倒的に多いことは容易に想像できる。

厳密に言えば、前者の方が露出面積は広いと言える。しかし、そこには面積だけでは決められないものがある。ここで重要なのがいかなる空想を喚起するか、ということである。スカートは空想を喚起し、ショートパンツは空想を回避するのである。

キーワードは「ちらちら」である。

露出面積と、男心をそそる着衣のデザインと形状を考察すると、面積とは無関係であるということが分かる。スリットの入ったチャイナドレスはどちらかというと「そそり組」に入る。しかし、膝を揃えてイスにすわり、スリットがちらちらしないと、それは「そそり組」からは除外される。しかし彼女が立ち上がり、横向きになってちらりちらりとスリットの開閉運動を見せつけながら、歩くという行為がそこに加わると、そそり度ランキングは一気に上昇する。

ゆかたや着物というものは、露出面積という意味では「ほとんど無し」と言える。その「ほとんど無し」状態のところから、「引き締まった足首に素足に下駄」という一連の流れだけでも十分に感動に値するものがある。何かのひょうしにすそが乱れて、白いふくらはぎがあらわになる、というようなシチュエーションがあったなら、それはいわゆる「生唾もの」だと言える。これは私が言っているのではない。パーソナリティの浜村淳が言っているのである。

女優寺島しのぶのお母さんは、寺島純子。これは結婚してからの名前でそれまでは、東映の看板女優で「藤純子」と言った。今を去ること30数年前には「任侠映画」という昔気質のやくざを描いたジャンルの映画があり、藤純子さんはそこで「緋牡丹博徒(ひぼたんばくと)」というおんな博徒の役柄で主演し、大人気シリーズだったのである。

おそらくは昭和初期の時代設定の映画ではなかったかと思われる。藤純子さんも共演する高倉健さん、鶴田浩二さんなどみな登場人物は着物である。(つづく)