346話 露出面積よりも空想喚起力だ 2

任侠映画が盛んだったころ、筆者は幼稚園か小学生だったので、実際に映画館で任侠映画は観ていない。テレビのUHF局で、中途半端な時間に唐突にやっていた映画番組でファンになったのである。

任侠映画というんは、パターンはほとんど同じである。いいやくざといい親分がいる。主人公になる「いいやくざ」というのは、たいてい流れ者である。それでいい親分のところにやっかいになる。そして対抗勢力の悪い親分がいる。義理も人情もへったくれもない、というあこぎなやつである。

そして、その悪い親分が、いい親分を殺してしまう。耐えに耐えた主人公も、もう我慢の限界である。ラスト10分、なぐり込みである。


たいていは雪の夜である。

♪チャカチャンチャン チャラララ ランラン

それでもって、親分の家というのは、そんなにへんぴなところにあるはずがないのだが、殴り込みの沿道にはなぜか人っ子一人いないのである。

その人気のない粉雪舞い散る道を、まっすぐこちらに歩いてくる主人公。(っとこの場合は藤純子)っと、ふっとその道に横からすっと出てくる着流し姿の男が一人。誰あろう、助っ人を買って出た高倉健兄イである。


っというようなシチュエーションで、殴り込むわけである。それでもって、短いドスを逆手にとって、殴り込んだ藤純子は、出てくる悪いやくざの子分どもを、右に左に捌いては切り捨てる。

もちろん着物姿の立ち回り。右に左に身をかわしながら、ここぞ、という時にぐっと脚を踏ん張り、ずばっと切る。その踏ん張りのシーンを後ろからカメラがとらえる。瞬間にすそがばっと開いて、藤純子の後ろ姿の真っ白なふくらはぎの部分がばっと映ったその瞬間に、満員の映画館の藤純子ファンの男達の生唾を飲む音が「ゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴク」と映画館にこだましたという(と、ラジオで浜村淳は言った)

というわけで露出面積と男性の感動というのは、正比例しないという話なのである。

それでは、何をもって「男性の感動」は大きくなるのかというと、空想をかき立てる度合いによって興奮したりしなかったりする、と言えばいいだろう。