351話 正直おじさん 魔がさすおじさん

そして10数秒後、財布がないことに気がついた。もちろんトイレを出て5メートルも歩いていない。先ほど用を足すさいに足下に置いたまま忘れて来たのは間違いないのである。

文字で書くと、上記のように長くなるが、実際に頭に浮かんだのは財布をポケットから取り出す際の一瞬である。それだけのことを考えて、ポケットから取り出したのだから、疑うべきもない。財布はトイレの床面に横たわったままになっている。

ということで、財布の落とし場所は間違いないしので、私はそのままおじさんが出てくるのを待つことにした。おじさんが出ていったら、入れ替わりに個室に入って財布を取ってくればいいだけである。・・・とここまで考えて「本当にそうだろうか」という疑問がわいた。それがベストの選択肢だろうか。

まず財布の位置であるが、正確には記憶していないが、しゃがみながらての届く範囲であるから、両足を置いた位置よりも前方であることは間違いない。ということは、おおむね視界には極めて入りやすい位置だと言うことである。ということは、おじさんはすでに私の財布を見つけているかも知れない。

さて、トイレの個室で見つけられた財布は、現金がほとんど入っていない場合と、ある程度以上入っている場合とではどちらが持ち去られる確率は高いであろうか?

この問題を検討するばあい「お天道様に顔向けができねえことは、決してしちゃあならねえんです」というまっ正直なおじさんと「人生勝ったものが勝ち!手に入れたものが勝ち。俺のものは俺のもの。人のものも俺のもの」というあこぎなおじさんの2種類のおじさんを仮定する必要がある。

正直おじさんの場合は、中身が軽かろうが重たかろうが「落とし物はしかるべき場所へ」という回路がつながっているので、ほぼ100%に近い確率で財布はおじさんとともに個室を出て駅長室に向かうことになろうかと思われる。

「悪い」おじさんの場合は、中身が重たい場合は「これは神様が私にくれたプレゼントである」と一点も疑うことなく我がものとするであろう。中身が軽い場合でも「このまま置いておいて、他のやつが持っていくと考えただけでも腹が立つ」からきっと持ち出すであろう。

「中の金目のものだけ取ればいいじゃない」と考える人がいるかもしれないがそれは違う。中身を抜き取って財布を残し、個室を出た瞬間に持ち主が財布を探しに現れたら、状況証拠はすべて「お前が犯人だ」ということを指し示してしまう。悪いおじさんはそのあたりの悪知恵は働くのである。だから悪意を持って持ち出すとして、途中でとがめられたら「ああ、今から駅長室に届けにいくんだ」と言い逃れが出来るようにするためにも、中身には手を着けずに財布を持ち出すであろうということが分かる。

このように考えると、財布は中身が軽いか重いか、おじさんが正直者かそうでないかにかかわらず、非常に高い確率で「個室から持ち出されるんだ」ということが分かった。

さらにこの「正直おじさん」と「悪いおじさん」というのは、絶対的に固定されたものではない。正直おじさんだって「魔が差す」時もあるし、悪いおじさんも「正直に届ける」場合がないとは言い切れない。

つまり、このまま黙ってトイレの外で待っていてはいけないのではないか?と思い始めて考えたのが上記の一連のことである。