352話 正直おじさん 魔がさすおじさん 完結編

おじさんがトイレでしゃがむ。しばし恍惚にふけり、ふと足下に目を落とすと、そこには茶色い皮財布がころがっているのである。私の財布は、クレジットカードはないのだけれど、小銭、回数券カード、家電量販店のカードに、領収書、さらには南方の絶品蕎麦屋「そばよし」の「サービスカード/10枚ためたらざるそばかこんぶそば一杯サービス ビール一本にもなります券」などで膨れ上がっている。外見はまるまると太った非常に魅力的な財布である。

道に落ちている現金や財布を拾う時に、大半の人がする行為というのは「周りを見回す」という行為であろう。善意の人は「落とし主や探しに来た人があたりにいないか?」と見回すようだし、悪意の人は「猫ババがばれないように、目撃者がいたら口を封じなければならない」と見回す。

しかし、ここは最も人目にさらされない個室の中である。心おきなく拾うことができる。おじさんは財布を手に取るであろう。善意の人なら「落とし主の身元がわかる情報はないかな?ごめんやっしゃ」と中を観るであろう。悪意の人は「なんぼ入ってんねん」と収穫の多寡を探るであろう。

そして人は天使にも悪魔にもなるのである。目撃者のいない空間の中で、その両者の間を揺らぐであろう。おじさんに、ここで出来心を起こさせてはならない。そのためには一刻も早く「あなたが今いる個室の外には落とし主がいるんだよ。待ちかまえているんだよ」ということを知らせる必要がある。

そこまで考えがまとまった私は、個室に向かって声をかけた。

「すいませ〜ん。財布落ちてませんか?」

そこでのおじさんの返答は、間髪を入れず返ってきた。

「今、しゃがんどんで、わからんわ」

これでおじさんの容疑は晴れた。その時点ではおじさんはまだ財布を発見していなかったのである。返答までの間に「ちゅうちょ」がなかった。「ぎくっ」という感じがなかった。そしてトイレの上部にあるちょっとした荷物置きのようなところに忘れているのだろうと思いこんでいる返答であった。つまり目の前にある財布が目にはいいていないのである。

もしその時点でおじさんがすでに財布を手にしていて、善意の人であった場合は、間髪を入れず「おお、あるで」という返答が返ってきたであろう。悪意の人であった場合は「くそ、残念。ばれたか」という思念が一瞬浮かぶために、私の問いかけに対して一瞬の間の後「あ、あ、あったで」と答えたであろう。

そして、その後しばらくはおじさんは沈黙していた。もちろんそれはご本人が本来の目的を果たしているであろうと想定するにちょうどの時間であった。数分の後、おじさんは財布を片手に出ていらっしゃった。

「これけ?」

「いや〜、すんません。」

この物語はこれで終わりである。財布は無事手元に戻り、おじさんは無事用を足して去っていった。

筆者が、トイレの中に声をかけたことで、この世に出来心の犯罪者を一人生み出すのを未然に防いだかどうかは謎である。