401話 ゲスト・ブログ

東京道場の山上指導員に、高野山合宿の時の「手様・足様の快気法」見聞録が掲載されている。先日河野先生からのメールで、同志・山上亮氏は、東京の快気法の講座でも、せっせと「手様・足様テクニック」を広げているという。

有り難きことである。

「これは使える」「授業に取り入れるに値するものである」と評価されているということでもあるし、また受ける人が変わればさらなる発展も見られよう。そういうフィードバックでまたこちらも改善のヒントが見つかろうものである。

ということで、以下山上氏のブログをそのまま転載させていただく。

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■10月16日

  『やりたいことは、やればわかる』  山上亮


14日から2日間、河野先生の合宿に参加するために高野山へ行ってきた。

今回は2日間講座がみっちりあるので、昼間、勝手気ままにプラプラと散歩をする時間というのはあまりなかったが、朝早く起きて早朝の霧雨にけぶる境内をのたりのたりと歩くのもなかなか乙なものであった。

ふだん大阪で指導している津田先生とお会いするのは久しぶりである。

「快」の追求については私以上に並々ならぬ意欲をお持ちの津田先生が今回、「快気法」の講座を行なうことになっていたので、非常に愉しみにしていたのであるが、予想通りというか予想以上にユニークな「快気法」が講座のなかで展開され、ビデオを撮りながら思わずこみ上げてくる「笑い」が、ビデオに入らないように気をつけるのが大変だった。

今回、講座のなかで展開されたのは「手様」「足様」「からだ様」の快気法というものであった。

自分の理想の寝相にたどり着くために「手様」「足様」「からだ様」にお伺いを立てようというのである。

二人一組になって一人に寝てもらい、もう一人が寝ている人の「手様」にごく軽いタッチで触れながら「手様」が「うむ、苦しゅうない」という処を探し、その動きについていく。それを「足様」「からだ様」とつぎつぎにお伺いを立てて、「からだ様ご一行」すべてが「うむ、苦しゅうない。余は満足ぢゃ。」という状態になるまでおもてなしをするのである。

そして終わった人たちからどんどん寝ていってもらって、最後はみんな「からだ様」ご満悦の理想の寝相で涅槃に入ってしまった。

みなさん、なんと気持ちよさそうな寝顔で寝ているのだろうか。

「いいなあ。」と思いつつ、私はビデオを回しながら一人さみしく、もぞもぞとからだを動かす。

しかし、「手様」「足様」「からだ様」というふうに考えるのはとても奥が深い。

「手を出す」のではなく「手が出る」のである。

「足を向ける」のではなく「足が向かう」のである。

「私」はそれについていく。

これまたこういうことって不思議につながるもので、ちょうど今私が興味をもっている「アフォーダンス理論」の研究の中に、まさにそういうことの研究があるのである。

人間の行動で観察されるものに「マイクロ・スリップ」という現象がある。

たとえばコーヒーをカップに入れて、そこに砂糖を入れるかクリームを入れるかというときに、意識とは関係なく手はそのどちらかを取る直前に「とまどい」のようなものを見せることがある。それはいろんな行動の中に観察されるものであるのだが、よっぽどじっくり観察しなければ分からないくらいの微細なゆらぎであり、ふだんの生活のなかでは確実に見過ごされる程度のものである。

手は行為の完了の直前まで理想的行動を探索しているのである。

「意図」があって「行為」に移るのではなく、手は「行為」をしながら「意図」を探索している。つまりからだは「やりながら、何をしようか考えている」のである。

佐々木先生が著書のなかで、脳からの中枢指令によって末端である手足が動くという中枢指令主義の問題点(ベルンシュタイン問題)について書いている。

『リードによれば中枢指令主義の困難を厳密に指摘したのは、ロシアの運動生理学者ニコライ・ベルンシュタインである。彼は、質量を持つ身体のどの部分の軌道も、運動それ自体によって引き起こされる力の変化を組み込んで、情報を刻々と更新しなくては計算不可能であることを数学的に示した。このような身体の特徴を認めれば、まったく同じ中枢指令が、現在進行中の運動の力学的文脈に依存して、異なる運動を帰結することも、逆に異なる中枢指令が同一の運動として現れることもあるわけである。』
(『ダーウィン的方法』佐々木正人岩波書店、2005、p124)

さらに別の著書でこんなことも言っている。

『私たちは「感覚されたものが脳で処理されて運動を制御する」という説明図式に慣れ親しんでいる。しかし、以上に紹介した知覚と行為の関係をこの図式に当てはめる

ことには困難がある。なぜなら神経系の伝達速度は、このように急速な行為を、その結果をフィードバックして修正しながら進めることを期待できるほど速くはないからである。』
(『アフォーダンス― 新しい認知の理論』佐々木正人岩波書店、1994、p97)

「マイクロ・スリップ」とは日本語に訳すと「微小錯誤」となるが、佐々木先生はそれを「微小探索」と名づけることを提唱している。

「錯誤」というのは「やっていること(行為)」が「やろうとしていること(意図)」から逸脱した場合をさすわけなのだから、「意図」を「行為」しながら探索している状態のとまどいを「錯誤」とは呼べないのではないか、というわけである。

なるほど、「歯磨きをしようと洗面台に立ったのに、鏡に映るぽっちゃりした自分の顔を見ているうちに、なんとなくスクワットを始めてしまい、それだけじゃ満足できなくなって外に走りに出てしまう」というような行動を、はたして「錯誤」と呼べるだろうか。

…ってそれは違うか。

(もっとも本人には「微小」とは呼べないくらいの一大事であるかもしれない。「グレート・スリップ」とでも名づけたほうがいいか。 )

私たちは「行為」の青写真である「意図」を、「行為」の中で探索し、書き換えていく。

からだは何かをやりながら、何をやりたいのか決めていくのであるから、その「探索」をより開放していけば、つまり、からだにその選択の主体をよりゆだねていけば、結果的に「やりたかったことを、やっている」自分を見つけるという機会が増えることになるのではあるまいか。

今回の講座で津田先生はそれを

「自分のやりたいことが何であるのかなんて分からない。やってみて初めて、ああ、自分はこれがやりたかったんだ、と気づくのである。」

と表現した。

私もそう思う。

私のからだも賛成している。「愉快」というメッセージで。

「自分がホントは何をやりたいのか」なんていう「やりたいこと探し」なんて空しいだけだから、そんなことはとっととやめてとにかく「やりなさい」、と若者たちにはソッとささやいてあげよう。