402話 快気法

山上氏のブログを転載させていただいたのであるが、筆者がこのブログで発表したものと会報に書いたものと、ホロンPBIさんのメールマガジン横流しした会報の原稿と、ブログに頂いた会員のみなさまの感想と、ブログを読まれた会員の方の感想が錯綜し混乱してごったになってしまっていた。自分が書いた会報の原稿もここにアップしていたように思ったけれど、出していたなかったことに気づいた。

ということで、高野山合宿で同志・山上亮氏に披露する前の開発途上の手様の快気法について会報に書いたものもここに転載させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下ミュートネットワーク会報11月号より転載



10月第一日曜日の「快の学校」の復習会の一こま。

「快」と言ってもいろいろある。体を壊す快だってある。麻薬やら覚醒剤なんていうのは、気持ちは良いけれども心身の健全さを損ない体を壊す。快気法は『からだを育て、健康度を上げる快』の感覚を育てていくのである。

では快というのはなんだろう、と考えると「やりたいことをやれている状態。欲求を満たしつつある状態」に快は生ずる、というひとつの見方ができる。

先月行なわれた「快の学校」では、その人の今自然にとってしまう『寝相』から、その人が「頭や神経が疲れているのか」「消化器が疲れたり感情を損ねているのか」「泌尿器が疲れているのか」「生殖器が疲れているのか」「呼吸器が疲れているのか」というのを判定する、というところから開始された。

そこで、復習会では『四肢にある「動きが自然に出てしまう一点」から出る体勢をつないでいくことで、自然に湧出される寝相を作ってみよう』というような話を枕に実習を開始する。

そうやって出て来た『寝相』というのはおっそろしく気持ちがいい。呼吸が深く心理的にも安定し、「もう何もいらないわ」という気分になる。

快気法の無意識の動きは、日常的生活の中では「のび/あくび」が代表的なもので、それらは筋肉運動をともなっている。しかし睡眠中はそれら寝相のかたちを取って筋肉の力み運動なしに、心身を調整している、ということを知ってもらおうという意図である。

快気法の味わいには非常に幅と深みと奥行きがあり、まだ出会っていない快に出会うヒントになれば、ということも狙っての展開である。

実習してみると、「捻り系寝相」が衆議院自民党のごとく圧倒的多数となる。さすが「ねじれの秋」である。

続いて腰椎の五つに対応する10種類のあおむけ快気法を、体のひずみや癖が取れて、柔軟性、弾力、バランスを回復していくことを観察・確認しながら着々と実施。

恍惚とした快適感覚はさらに深まり、晴れやかな満足感とともに実習終了。そこで、再度あお向けから、「一番したい寝相は何か、四肢に聞いて取り出してくる」を足してみることにする。

きちんと整っていれば、寝相はあおむけ自然体で落ち着いているはずである。

8名の参加者全員、あお向けで、それ以上の変化は必要としていなかった。ただし、四肢に触れて見るて、ほんの数センチ微調整すると、さらに深く快さを感じ、リラックスし、呼吸が深くなる。そこに快気法をやりこんでいく意義を感じる。

参加者一同「今はうつぶせとか横向きはいらない。今やっているあおむけ自然体が一番いいわ」と感じていたに違いない。しかし、そこに手を添えて、さらにほんの少し角度をずらすと「まさに、この体勢がしたかったのよ」という姿勢に出会う。

ということは、その微調整前の姿勢は「私がしたいことをしている」と思っていたが、実はしていなかった、ということになる。

その数センチの差が大違いなのである。その数センチは物理的には小さいが、体感的心理的には非常に大きい。その1〜2センチは「まさにこれしかない」という手ごたえの状態である。そこに出会うために、快気法をやりこむ意義はあるであろうし、また、人に触れて手伝ってもらう意義があるのであろう。

自分が何をしたいのか分からない、という青少年少女共通の悩みの声を聞く。そこでおじさんは叫ぶ。「分からないのが正解だ」と。なぜなら「まだやっていない」からである。それは訪れた瞬間に、「まさしくこれが私のやりたかったことだ!」とわかるのである。 

整体の際、押さえられて初めて「そこそこ、そこを押さえて欲しかったんだ」と思う、あれである。それはえてして押さえられる前に押さえて欲しいと感じていなかったところほど、至福を感じる。予想通りの場所は魂の感動がないのである。

まずは、快気法を通じて「私が最も求めていたのはこれだ!」の「気分高揚恍惚快適どんぴしゃり状態」をぜひ多くの方に味わって頂きたいと思うのである。