413話 指揮 2

次の学校になった。楽器の入れ替えにやたら時間がかかる。和太鼓が出てきた。孟宗竹の太いのが、柵のように舞台に並べられる。

M小学校である。「縦笛演奏によるソーラン節と、M小太鼓」というような演目だと紹介された。(正確には覚えていない)舞台最前列に太鼓が三台。そのすそのに孟宗竹。これもバチで叩いて「和風パーカッション」となる。バックにはずらりと縦笛が並ぶ。

演奏が始まったが、指揮する先生はいない。「M小太鼓」という「曲?」も紹介の際には「秋祭りをイメージして子どもたちが作った」とナレーションが入っていた。和太鼓演奏は、私の好みにぴったりである。実に楽しい。指揮者はおらず、子どもたちだけで、完璧ではないにしても、崩壊することもなく、見事にやり終えたのである。

そうなのである。和楽器、邦楽は基本的に指揮者のいない演奏が当たり前なのである。

オーサカ打打打団「天鼓」の学校公演を見に行かせてもらったという話をず〜っと前に書いたけれども、その公演の中でも、メンバーの方が演奏会中で「太鼓には指揮者がいない」ということを「和太鼓バンドとはなんぞや解説」として話をされていた。

指揮がいないから、自分以外の音を全身で聴いている、というようなことも語られていた。

指揮者が指揮を取る「演奏」という西洋的なメソッドと、指揮者のいない和風メソッドの違いを目の当たりにして、筆者の身体調整の基本的な立ち位置は、和風だなということを再認識したのである。

「手様の神通力」もそうである。手様が最前線に立った時に、手以外の場所が、それぞれの役割を果たすことで、いかに手様に縦横無尽に働いてもらうかに協力していく、という発想である。

全体で一個の生命体としてうまく働くためには、それぞれが一つの生命体のごとくそれぞれの意思のようなもので独立して働きながら、それが全体としてはまことにみごとに一つに調和している、という状況を身体操作の理想として持っている。

指揮者がこけたら、みなこける、という体制ではない。指揮者のいわれるままに動こうという発想ではない。

今月15日に天啓によってもたらされたと今週はじめに書いた「相手の身になって、相手の天心に向かって、次なる変化を待つ」の愉気、というのも同じ発想の線上にある。

人を元気にする、健康にする身体調整を志す者として、「その人がどうなったら、もっとも合理的・理想的な調整ができたことになるのか」ということが常に最重要課題として頭にあった。それがなかなか見えてこなかったのである。骨格なのか、筋肉なのか、リンパなのか、神経なのか。心理系もあれば運動系もある。どこかに立脚すれば、かならずはみ出すものがでる。収まりきれない部分が出てくる。対処できない事例が出る。実に難問である。

で、結局どうなったか?

そんなもん「俺が決めることじゃない」という悟りに至ったのである。「あなたはこう元気になるべきだ、今のあなたは間違っている」なんていう権利は筆者にはない、ということが腑に落ちたのである。考えて理想を理論化しようというのは大間違い。

相手の身体がどの方向に改善したいのかといのは、相手(の身体もしくは生命)がすでに決めているはずなのである。相手のことは相手に聞けばいいのである。

「相手の身になって、相手の天心に向かって、次なる変化を待つ」の愉気というのは、相手に気というエネルギーで「働きかける」方法ではない。(結果としてはそうなるとも言えるけど)

意識が作っている相手との境目を取り去って同調したのち、「ほんでどないしたいのん」とひたすら「聞く」だけの方法である。(耳で聞かずに手または身体で聞くのだけれど)

すると、例えば相手の身体が勝手にこちらの指に自らを押し当ててきて「あ、そうなの、そこをその強さで押さえたら、望ましい変化の方向に動き出すわけなのね」とこちらが理解する、というような方法である。

何も積極的には働きかけないにもかかわらず、受ける方の心身の変化の速度は、今までやってきた方法の中でもっとも大きい。

「なるようになる」という言葉は「やけくその心理」を表した言葉で使われることが多いが、前記したような身体調整をやり始めてみると「なるようになる」「なるようにしかならない」は決して「なげやりな状態」に使うべき言葉ではないと思えてくる。

いやあ、なるようになるんだなあ、ありがたいなあ。いやあ、なるようにしなかならいんだなあ、感動だなあ、というように使用したくなる場面に多々出会う。

生きている間は、条件を整えれれば、すぐに芽を出し、すくすくと育つすばらしい種を、人間は一杯持っているという見え方がしてくるのである。