427話 今日の日の出は俺の初日の出 2

樹齢100年は軽く越えているケヤキの並ぶ道を下って、表坂から言えば上りきったところ。城郭の南東の角に小高く張り出している『松の丸櫓台』跡地に出る。堀を挟んで南東に広がる和歌山市街地の向こう、紀伊風土記の丘あたりから南につらなる山並みの裏に、今まさに顔を出さんとする朝日の冠がその勢いを増しているところである。


雲一つ無い快晴の白みかけた清浄な空気の中、月は西の空にかかり、朝日はまさに今昇らんとする。

そう言えば、これは筆者が新年になって初めて見る日の出の瞬間である。お正月休みの間も朝の「すずちゃんの散歩」にはたびたび行った。元旦の朝の日の出時間にも行った。しかし、時間が遅かったり、雲がかかっていたりして「これぞ日の出の瞬間」に立ち会ったのは、今日が始めてである。

雲に遮られた日の光が、ずいぶん角度を上げてから雲間から差したとしても、それは「日の出を見た」とは言い難い。



子どもの出産時に病院に駆けつけた夫(橋本武 29歳 仮名)が、待合い室でやきもきと待っている。もうかれこれ2時間がたつ。そして18時26分、分娩室から産声が聞こえる。

「おぎゃ〜、おぎゃあ〜」

少しの間をおいて、分娩室からベテランの助産婦さん(山田静子、52歳 仮名)あたりがピンク色の産着あたりにくるまれた新生児を抱いて出てくる。


「ご主人、おめでとうご・ざ・い・ま・す。元気な女の子ですよ。まあぁ、目元のあたりはお父さんそっくり」


なんてせりふを言う。


この場合、夫・橋本武は「出産に立ち会った」とjは言えない。「見守った」とも言えない。


病院で出産を待った、というのが正しい。


もちろん、北九州への出張でどうしても病院に駆けつけられず、今日の出張を命じた尾崎課長(55歳 仮名 神戸市北区に30年ローンで一戸建てを買ったために小遣いを減らされ、部下に意地悪になったと部下達の間では認識されている)に呪いの悪口雑言を心の中で吐き出しつつ ホテルにいてもいたたまれないので、中州の屋台でとんこつラーメンに意味もなく大盛りのおろしにんにくをトッピングし、病院に行っているはずの義理のお母さん(和歌子 岡山在住 58歳 仮名 この日のために携帯電話を買った)からの携帯電話が鳴るのを待つ、というシュチエーションよりは好ましい。


しかしながら、分娩室に入り、つい先刻まで愛妻 加奈子(26歳 仮名 元同僚 職場結婚して2年目)のおなかをスイカのようにふくらませていた生命が、結婚以来、武にとってもおなじみになった愛妻のあの部分から頭を突き出して、するりとお出ましになり、一個の独立した人間としてこの世に出てくる瞬間を目の当たりにし、共有するのとでは、その感動というものの質と量は、比較にならない。


この「何かが萌え出ずる(いずる)瞬間」というものを人間は尊重する。価値を感じる。



・・・とその時、偶然かのように二人の手が重なった。あわてて手を引っ込める前に、互いに一瞬のためらいがあったのを武は感じた。相手の手の感触をふたりともが共有しようという、ほんのまたたくような短い時間であったが、それは加奈子も感じていた。そうこの時、二人の間には、「愛」というしかない何かが芽生えたのであった。


というような状況は映画になり、ドラマになり、小説になる。


しかし、この夫婦が結婚後8年たち、加奈子は家事に追われ、武も係長になって多忙になり、会話も少なくなって、ただ同じ日常が繰り返されるようになって、いわゆる倦怠期に入ると、これは映画にはならず、ドラマにはならず、小説に書いてもおもしろくない。


やはり「今まさに始まる」という瞬間の価値には遠く及ばない。