428話 今日は私の初日の出 3

そういうことで、「雲間から差し込んでくる午前中の日光」と「雲一つかかっていない『山の端(やまのは)』から、一条の矢のごとく飛び込んでくる生粋の日の出の光」では、その価値には雲泥の差があるのである。


「萌え出ずる瞬間」とともに珍重されるのが「初」である。

「本邦初」はキャッチコピーになるが、一つ順位を下げただけで「二番煎じ」などとさげすまれる。その差は金メダルと銀メダルの差どころではない。金メダルと予選落ちと言っていいぐらいの評価がなされることが多々ある。
船でも、女性の性体験と絡めたことばで「処女航海」なんていう用語を当てて、「初めて」ということに価値を見いだしていることを表明している。処女航海の時には舳先でシャンパンを割ったりする、といような記述が、子ども時代に読んだ本に書いてあったが、セカンド航海の出港時には、船員達はシャンパンは割らずに、自分たちで飲むであろう。


初夢とか初鰹とか初物なんていうのも、軒並み評価が高い。


創業者はカリスマとなるが、二代目は「あほぼん」扱いされる。(これが三代目あたりになると、「○○の血脈」というような要素が入ってきたり、ホップステップのあとでジャンプさせた人、というような扱いが加わり、また尊重されるような傾向もなくはないが。)


前記したが、筆者は元日にもすずちゃんと散歩に出た。その日は天守閣には上がることなく、二の丸広場から天守閣を仰ぎ見るだけであった。すると天守閣に人が群がっているのが見えた。建物の中にもなんか人影が多数見えるようである。


通常は朝九時からの天守閣も、和歌山市内の数少ない「初日の出」スポットとして、元旦は早朝から開けているのか、と推理した。しかしながらその日は曇天であった。天守に群がる善男善女たちは、むなしく薄くオレンジ色に変色したような気がする、という雲を見ただけで帰路についたであろう。あるいは、ずいぶんと角度が上がり、オレンジ色の光が、透明度を増した後の雲間か雲の上から照らす「日の出」というようよりは「日照」を待ち、なんとなく間延びした思いで帰路についたであろう。


ほんのわずかな角度の差であるが、そこにはあまり「ありがたみ」がなく、清浄さは減じ、いただくパワーにもライブドアのごとく株価急落を感じてしまったであろうことは、想像に難くない。