449話 あなたとの間になにがある

同士・Y上亮氏のブログとは、時空を越えて?「同じようなこと考えておるんやなあ」現象が再々起こっているが、2月25日のブログは

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誰がつけたか知らないが、人間とは「人の間」と書く。
人間の本質とは「人の間」にあるらしい。

多くの「人の間」によって構成されるモノ、それが「人間社会」であると言ってもいいと思うけれども、

人間社会において「人の間」はつねに「何か」がやり取りされている。

「人の間」でやり取りされる「何か」は、あげればその種類は数限りなくあろうけれども、

その中でも特に、ものすごい勢いで世界中の「人の間」を駆け巡って、大勢の人を結び付けていくモノといったら・・・・・


http://zatsunen-karada.seesaa.net/article/13776084.html


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・・・・・以前の部分。



「私が私の意志で、これこれこうしよう」と考えて行動する、というのが「人間だ」と考えていると、「私が私の意志でこれこれこうしようと思っているのに、なんだってこんなにうまくいかなのよ」ということになるのが筆者の経験である。


筆者の人生を冷静に客観的に考えると、意志で持って何かを達成した、ということがどれくらいあるか、というと、片手にさえ余る。(これをばんばひろふみ氏は、名曲サチコの中で『幸せを数えたら、片手にさえ余る〜♪』と歌った・・・・かどうかは知らない)


こうするんだと決めながらできなかったこと、というのは両手両足それぞれの指の数ではまった不足するのでさらに、豊富にある毛髪や体毛を動員することでなんとか帳尻を合わせられそうだと感じるぐらい足りない。(これをばんばひろふみ氏は、名曲サチコの中で『不幸せ 話したら、両手でも足りない〜♪』とかなり控えめに歌った・・・・かどうかは知らない)


「意志でもってやったぜグループ」に所属しているように見えても、その背景には「たまたま」「ぐうぜん」「なんとなく」というような不確定要素が多々見え隠れする。


「俺がこれをやろうと決めた」と思っているが、何がそうさせたのか、という背景部分は実は自分にもよく分かっていない。


うまくいったことでさえそうであるから、うまくいかなかったら悲惨である。うまくいかないのは、自分にふさわしいことをしていないからだ、ということになって、じゃあ自分って何なのだろうと自分探しの旅が始まる。何でやねん、と悶々とする。あるいは何かしかのスキルが不足しているだ、と思い、自分に何かを付け加えようと勉強したり習いにいったりする。(でもなかなか解決しない=筆者の場合)


およそ自分探しをする背景を考えるなら、うまくいっていない、満足できていない、ということが圧倒的に多いことは間違い無かろうと思う。


「私は何でこんなに満足なんだろう。公私とも満ち足りているんだろう。充実しているんだろう。生き甲斐を感じているんだろう。幸せなんだろう」という人が次に選ぶステップとしえ「自分探し」を始めることは圧倒的に少ないように思える。


不満・不充実・無生き甲斐・不幸せ状態での捜索活動は堂々巡りをしてしまうようである。(もちろん、そういう無駄が実は無駄じゃないようにもちゃんとできているようにも感じる)


筆者は健康体操の指導者である。単純化すると、「身体を曲げたり伸ばしたり、息を吸ったり吐いたり、気持ちを集中したり開放したり」の組み合わせをデザインするのが仕事である。(って書きながら今感心した。そうだったんだ。)


だから人の身体の歪み・その背景にある凝りやこわばりなんていうのは、常につきまとうテーマである。


最近少し指導が楽になったように思う。


それは「身体がゆがんでいる」と観ていたものを、「身体がゆがむ方向に引っ張られている」という見方が加わってきたからである。


説明するほど、大半の読者には訳が分からなくなるから深追いしないけれども、(その原因は実は筆者もよく分かっていないからである)「その人」を整えようとしてうまく行かなかったものが、「その人とその人の周り」をとらえるようにしたらうまく行きだしたということである。


周りとは「空間」である。


空間とは「間=ま」である。

人間というのは、その人とその人に影響を及ぼしている周辺空間の「あるなにがしかの働き」が融合したものである、というのが筆者、最近の実感である。


Y上くん、いかが?