454話 聞こえない音

2月の【大阪・快の学校 快気法指導者養成コース】には、東京の快の学校に所属しているビオラ奏者のM田さんが、関西で演奏会があったとかで大阪での授業に参加されたので、飲み会の話題も、珍しくそういう「音楽関係の話題」にも飛び、CDやらレコードの話題になった。

SP版というレコードがかつてあった。ステレオ以前の古〜いレコードの形で、電気ではなく手でハンドルを回して、それでレコードを回転させてきく、というものである。

河野先生が知人にそれを聴かせてもらったら


「雑音だらけだし、音質もまったく良くないのだけれども、目の前に演奏家がいるように感じて、その臨場感にびっくりした」

そうだ。


SPの後にLPが出て、CDになって、しばらく前まではそれをMDに落としていたのが、今はパソコンやらIポットとかいうものにデータとしてダウンロードして聴く、という風な時代の流れがある。


有数のレコード収集家であった野口整体創始者・故・野口晴哉先生は、そのLPレコードを評して


「最近のはつまらない」


と言われていたそうだ。録音技術が発達して、何度もやりなおしては「いいとこ取り」をして、つぎはぎでそれらしいものにでっちあげ(?)ているからつまらない。SPの場合は演奏家も一発勝負だから、それなりの気合いと統一性があった、ということらしい。


レコード盤というアナログから、CDというデジタル機器に媒体が移った段階で、雑音はどんどんカットしていく技術が導入されたらしい。また人間が「音」として認識できない周波数の部分もどんどんカットされているらしい。


「別に聞こえないんだし、全部収納していたらCDに入りきれないじゃないの」


ということらしい。


ある男性バイオリニストがテレビで演奏をしていた。彼は、曲の最後に音が消えた後も、弓をじっくりと動かし続けていた。そのことを司会者に質問されて、どう答えたかという文言は正確には記憶していないけれども、「音が出ていなくても、それは続いているんだ」というような意味合いのことと理解して聞いたのを覚えている。耳に響くものだけが音楽の本質ではない、ということを言われていたのであろう。


対極的である。


デジタル化というのは曖昧なものを許さない、という特徴がある。「あるんか、ないんかはっきりせい!」ということで成り立っている。そして常に機械の容量やら通信速度というものに制限される。


これは現代の建築事情にも似ているように思う。都市部の地価は高く、そのため箱のように上に積み上げて(マンションなど高層建築)広さ=価格であるので、あいまいなゆとりの空間は許さない。ここは外なのか中なのか、この部分の持ち主は誰なのか、用途は何なのかはっきりせい!という感じである。


日本家屋を見てみる。


縁側というのは、外のような中のようなあいまいな空間である。土間というのは床なのか地面なのかようわからん、という部分である。ふすまをはずせば大広間、ふすまを入れれば個室になる、というのが日本家屋であった。AはBである!という断定的な面がきわめて少なく、用途に合わせて完璧に設計しない変わりに、どうにでも使える柔軟さを持っている。


「音楽が聴きたいんでっしゃろ?それやったら歌手の声と楽器の音がクリアに聞こえたらよろしいやおまへんか。他に何がいりまんねん」


という発想にじわじわと疑問を感じる筆者である。