456話 音の話から飯の話へ

健康ということは何か?というと、「変わっていける能力」という見方ができる。無病のことではないのである。

何があろうとまったく変化しない、というのは極論すれは死んだ状態である。


病気をしないのが健康なのではなくって、症状を通してバランスを取り、弾力を取り戻すというのが生きた状態である。


悪いもの・身体に合わないものを食えば、「げろげろげろ」と速やかに吐き、吐き終わるやいなやけろっとしている、というのがいい身体である。下痢も同じ。発熱だって、熱が38度を超えると免疫細胞が活発に動きだすのだからありがたい働きである。自分ができることは、その働きに協力して身体がやろうとしていることをじゃませず、速やかに経過させることである。そういう立場に立って人の身体をみている。


健康ということをまた別の見方をすると「今自分にとってちょうど良いものが分かる」とも言える。


「良いもの」というのをもう少し細かくすると「いいタイミング」「いいもの」「いい量」が分かる、ということである。

食い物で言えば

「その身体にとってまさしく欲しているタイミングで」「もっとも身体が喜び血肉になり、また整える作用を持つものを」「足りすぎず、食い過ぎず最適量」食べる、ということになる。


「腹が減っている時に、食いたくなったもんを、食べ始めたらものすごくおいしかったけど、案外少量で箸を置いてしまったわ」というだけの話を難しく書くと前の段落になる。ようするにふだん何気なくやっていることである。


すごいことを何気なくやってしまう、というのは名人達人である。読者のみなさんの身体の中には、すばらしい主治医・健康コンサルタントがおわしますのである。


さて話の発端は

、「MDはCDからさらにカットしている」ということを聞いた時に筆者は


「だから、一日中ヘッドホンかけて聴いていられるのではないか」


と思った、ということである。


ようするに、いいのもは適量食えば箸を置いてしまう、という生命の現象と違うやんけ、ということに対する違和感である。いい音楽をいい音楽として聴いていれば、一日中ヘッドフォンステレオで聴いていられる、というのはおかしいんじゃないの?ということである。


食にたとえて再度申し上げれば

【偏ると満たされず、満たされないとむさぼり食う】
という現象が起こる。具体例は明日。