459話 「噛む」を咀嚼するの2

噛むという行為を長い時間行うほど、この情報収集分析がしっかり行われるということである。


噛まないということは、ほとんど何が入ってきたのか、情報がない、ということである。



噛むことでしっかり情報収集すれば、身体全体として「うむ、これくらいが適量だよ」、という命令を発令することができる。


噛まないで食べても「とりあえずこれはほぼ食い物であること間違いない」という程度の判断はしていることと思う。したがってどんどん胃袋の方にお通しする。


情報がなぜ必要なのかというと、これから生命を維持するために必要であろうもののうち、どういうものがどれくらい入ってきたようだ、ということを割り振る必要があるからだと思う。


身体の中に、ホテルのベテランフロントマン、または老舗旅館の敏腕女将、高級クラブの辣腕ママがいるようなものであろう。


「あ〜ら、とんがらしさんじゃございませんの、お久しぶり。カプサイシンパワーで手足を温めてね。それじゃとんがらしさん、楓の間にご案内して」

とか

「まあまあ、白米さん、今日は団体なのね。最近炭水化物が足りてないのよ。良く来てくれたわね。それじゃあ、高雄の間に入っていただこうかしら」


というようなことを、身体はしたがっているのでろうと想像する。受け入れ態勢を整えて、受け入れたいのである。誰だって取捨選択はしたいものだと思う。


噛まないことによって、身体に適切な受け入れ態勢が生まれるのを阻むことができそうである。


しかし、こうやってからだに放り込まれた食い物たちの末路を想像すると哀れである。



氏素性が分からないまま大量におくりこまれた「そば」たち。


補いあって、助け合ってともに食い主様を丈夫にしようではありませんか、と手を取り合う薬味たちもいない。孤独な旅である。


確かに血肉になる、と言う確信が食い主の身体側にあれば、しばし待合室(胃袋)にて「整理券を取ってお待ち下さい」という役所・銀行・郵便局のようなシステムも作動するやもしれぬ。


【ピコーン 98番の・カード・を・ お持ちの方は・2・番の・小腸へ・お越し下さい】


というふうに徐々に消化吸収する、という手もあるかもしれない。


役にたつかどうかわからない、氏素性のわからぬ大量のそばたちをどう扱うか。受け入れ体制が確立されていないのであるから明白である。


「一刻も早くお引き取り願おう」

ということになる。しかし、多くの人は「吐こう」と思ってすぐには吐けない。(筆者の胃袋はこのことに関しては優秀である。胃袋に何か入っている状況であれば、吐こうと思ったらすぐにできるって言ってもおそらく誰もほめてくれないであろう)


そこで、胃袋はさっさと小腸へと送り出し、小腸は申し訳程度に消化吸収して、さっさと大腸へとバトンタッチする。大腸は即座に直腸へと放り投げ、直腸は肛門へ「開けごま」と呪文をかける。それはもうラグビーのような世界である。


あわれそばたちは、速攻で「くそ化」するのである。


これは筆者の想像・妄想ではない。大食いコンテスト出場者の胃袋ならびに消化器はどのようになっているのか、というテレビ番組で実際に医学的に調査された結果に基づいている。ちなみに、大量に入れてそそくさと体内に通過させて、ところてん式に食物を身体に通過させてさっさとくそにするこの消化器のしくみはイワシと同じ」という解説がその番組内でしてあった。


何の話だっけ?


そうそう。ヘッドフォンステレオで、MDで音楽を聴く、一日中つけっぱなしだよ〜んとうのは、実はその音楽がなんらいいものを体内にもたらさず、ただ素通りさせているんじゃないの、ということが言いたかったのであった。