460話 歩み寄る味わい

前回までの数回、音の話を書いていたはずなのに、圧倒的に食べ物の話になるのは、どういう訳だろう、等と「思いながらも、さらに食べ物の話が続く。

実家で母親とテレビを見ていた時に、母が唐突に言った。


「テレビの料理の食べ歩き番組で、京料理を食べたレポーターが、口に入れるなり『ああああ、いや〜、こりゃあ美味しい!!』なんて言うけどあれは嘘ね。」


祖母(母の母)が京都の生まれだったためか、母は京料理に詳しいらしい。圧倒的迫力でそう断定するのである。


京料理っていうのは、薄味なのよ。口に入れてすぐなんてたいした味はしないの。薄すぎるってくらいなのよ。それを二口三口と口にしているうちに、『あれっ、あらっ、味がでてきたわ、あれ、美味しいわ?』というのが京料理なのよ」


なるほど、なるほど。


先日の『快の学校』後の恒例の飲み会では河野先生が伊豆の修善寺での体験を話されていた。



空海修行の地」を訪ねて、そこをお守している方と仲良くなって、手作りの抹茶と和菓子を頂いた。で、そのお菓子というのが


「口に含んだ時には甘くないのが、お抹茶と一緒にのどを通る時に、口中にふわっと甘みが広がってびっくりした」


というのである。


ここに共通する身体の働きというのは、おそらく「歩み寄る」ということであると思われる。つまり


「ほんとうは、とっても美味しいんだけれど、食べる側が相応の構えをしないと、その味わいは得られない」


というのものである。


人の手首をつかまれた、というような時、その手を振り回すとタイミングによっては簡単にふりほどけたりする。たとえふりほどけなくても、待った方はけっこう消耗する。一方で互いが相手の手首をつかみあう、という方法だと実に強固である。騎馬戦などではそれを使って、その上に人を乗せている。まことに大丈夫である。


舌の上に乗せるなり「美味しい」というものも、もちろんあっていい。しかし、自分の方から歩み寄って感じ取れる美味しさというものもなくてはさみしい。


そういう感覚が持てた方が、人生の中に豊かさが増えるような気がする。


最近の食べ物は「いきなり美味しい」というものが圧倒的に多いように感じる。こちらがその「味」に歩み寄ることがなくても、舌の上に断定的に「こう味わえ」というものが刻印される味である。


お互いに手を伸ばし合って「ハイタッチ」、という感じではない。朝青龍に両まわしをがっちりと取られて、土俵ぎわまで万全の体勢で寄り切り!という感じである。右にも左にも変化のしようがなく、選択の余地なし、という感触である。


ニコニコタッチセラピーは、「受け手参加型」である。


「あたしゃ黙って寝てるから、嫌がおうにも気持ちよくしてね」


という受け方では、その美味しさが分からない。


タッチする手に沿って受け手も意識移動をしていくことで、あっけないぐらい軽快感が生じてきて、さらに実際の運動機能も向上してしまう。


一方的な奉仕ではなく、共同作業にすることで、より質の良い次元に行くことができる。味わい深い世界である。味わい、味わい・・・・あっ、また食い物の話に行きそうだ。今日はこのへんで。