462話 伏せ字のままで

4月5日である。阪急沿線十三〜六甲間は線路脇のいたるところに桜が植わっており、居ながらにして花見ができる。そして沿線のここかしこに桜が咲くのが見える。まことすがすがしい阪急沿線である。


さて本日は、筆者実兄の誕生日である。7年か8年か、もっとか忘れたけれども、東北の研究所での勤めを終えて大阪の本社に戻り、娘二人は無事地元で進学し、奥方も地元で働き、身動きが取れなくなったところで、速攻で再びみちのくへの転勤指令が下った兄である。


当然こたびのみちのくへの赴任は「みちのく一人旅」である。


兄上は、いかにみちのくでの誕生日をお迎えのことであろうか?この場を借りて誕生のお祝いを申し上げる次第である。


それから、先日実家の母上経由で頂いた、仙台名物萩の月」(だったけ?)および「東北限定・つがるりんご味・コロン」は筆者ならびに我が一族の胃袋に瞬時に消えたことをご報告いたします。ごちそうさまでした。

で、

まだ例の本は出てこない。ちなみに筆者名は藤原正彦先生という数学者で、新潮文庫から出ている本である、という詳細は思い出した。が、部屋を片づけるまもなく大阪と和歌山間を行き来しているので、いっこうに本を本腰入れて探せないのである。そこで、引用部分を伏せ字およびうろ覚えの記憶で先を書くという暴挙に出ることにした。

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食い物を例に例えて「歩み寄る」ということを書いたけれども、そのあたりからまた思いついた雑文を少々。

国家の品格』という本が売れているらしいけれども、筆者はまだそれを読んでいない。



ところが、会員のO西さんから、同著の著者である藤原正彦先生の「親父のなんたらかんたら」というエッセイ集がおもしろいですよ、というお勧めを頂いた。


筆者が「音」とか「音楽」についてごたごたと書き並べているところから「関連するような話が載ってまっせ」

ということで教えてくださったのであった。O西さんによると


「何でも、大正時代の日本人は実によく歌を歌っていたらしいんです」


と言われる。


「音楽」とか「歌」という情報に敏感になっていた筆者は、その話に耳がピクンとなり、さっそく買い求めて読んでみた。


話の証言者は「●●●●」という●●人の●●が、●●という本に書いた文章である。


同書によると


●●●●●●●●ということだったらしい。


じゃあ日本人は大正時代になって急に歌い出したのか、と考えると、そういうことはないであろう、と想像がつく。その歌は地域や職場に根ざしていた歌であるから急に生まれたものではなく、歌い継がれてきた、と見る方が自然である。


筆者は共通一次の二期生。いわゆる「しらけ世代」というあたりに属し、その後の「新人類」と呼ばれた例えば将棋の羽生(ってこんな字でしたっけ)さんよりは上の世代になる。


筆者の生活には、そういう「歌声にあふれる」という傾向は少ないように思える。歌声あふれる日本とうのは、いつ頃まであって、いつごろに消えたのであろう。


筆者より上の世代になると、まだ自然発生的合唱のようなものが、もっと生活に入り込んでいたように見受けられる。「歌声喫茶」なんてものが上の世代の方々にはあったようである。学園紛争でバリケードを挟んでにらみ合う機動隊と学生がいつしか夕焼けこやけの赤とんぼ、などと歌い出した、というような話を、浜村淳のラジオで聴いたことがある。


筆者にはそういう経験はほどんど記憶にない。高校一年の野外活動などで、キャンプファイヤーを囲んでクラスごとに歌う、というような「自然発生的でない合唱」が妙に気恥ずかしかったり抵抗があったりしたような記憶がある。


合唱する、ということよりも「個人で聴く」という行為にシフトしつつある世代ではなかっただろうか、と思う。


筆者が5年生だったころに我が家に「テープレコーダー」という機械がお目見えした。




音楽というのは、携帯やらパソコンで簡単にダウンロードできるものだと思っている若年の読者諸君に、そのころの音楽事情というものをお話しよう。


当時は「歌謡曲の歌番組」というものが全盛であった。中学生レベルのお小遣いというのはきわめて低額で、レコード(CDなんてものはこの世になかった)を買う、なんていうのは大ぜいたくであった。


お気に入りの歌手の歌を聴きたい時にいつでも聞ける、というテープレコーダーというのは、そういう中学生にとって夢のような機械であった。


お気に入りの歌をどこから録音するか、というと、ラジオとテレビがあった。言い換えるとテレビとラジオしかなかった。


ラジオであれば、ラジオ付きカセットテープレコーダーであれば雑音なく録音できる。しかし、ラジオの欠点はいつ誰の何という曲がかかるか、というのは一切分からない、ということであった。


そこで「耳を皿のように」して深夜放送のラジオの前で、そのお目当ての曲がかかるのを待つ、そしてかかるが早いが録音のスイッチを入れる、というのが録音の仕方である。


それはあたかもバッターボックスでピッチャーの球を待ち受ける打者のような状況である。ラジオ局との真剣勝負である。WBCで韓国やキューバのピッチャーに対するイチローもかくありなん、という集中度である。


最初は・・・。


しかし、深夜放送は眠たい。またイチローならぬ我が身は、ラジオの前の集中力がそうそう続くものではない。集中力が途切れた時にその曲がかかって地団駄を踏み、お目当ての曲がかからないで一晩空振りに終わる、ということだってざらだったのである。お目当ての曲がかかる前に睡魔との戦いに負けて熟睡してしまって悲嘆にくれる、ということもざらだったのである。


しかも、ラジオのパーソナリティは、前奏にかぶせて少々話す。録音するにはこれがすこぶるじゃまである。再生するたびに毎回同じパーソンリティの語りを聴いて曲に入る、というのがラジオから録音した音楽であった。


さらに初期のテープレコーダーには、一時停止スイッチとかミュートスイッチ、というものがなかった。これはどういうことかというと録音しているテープを止めようとするならば、電源を切るしかないということなのであった。停止=電源を切るスイッチでテープを止めると、録音のその瞬間に「ボチ」とか「ブッ」という大音響がしっかりと録音されてしまうのである。


さらに、隣室や同室の照明などを点けたり消したりしても、その急激の電圧の変化のためか、電磁波が飛ぶのかは知らないが、同じく「ブッ」という雑音が入るのである。


中村雅俊の「ただお前がいい」を録音している時に、隣室で何も知らない母親が「また電気を点けっぱなしにして、ぶつぶつ」とスイッチを切ったとすると


「♪まったぁ会う 約束など することもなく ブッ   それじゃ、またなと 別れる時の お前ぁえがぁ いぃぃいい〜〜 ボチ


となるのである。


ラジオとの戦いに勝利したあかしである録音された曲というのは、パーソナリティの語りの最後の一言二言というじゃま音で始まり、「ボチッ」という雑音で終わるというものだったのである。それであっても、音楽少年にとっては輝かしい戦果なのであった。