463話 八丁目の夕日 テレビ録音編

一方、もう一つの音源がテレビである。テレビでは歌謡曲のベストテン番組などが数多くあった。それはテレビ欄で出演歌手が分かるから、


「今日は天地真理が出る」「南沙織が歌う」


ということは確実に予測できる。


我が家にテープレコーダーがもたらされた初期の頃の話である。実家の建て替えのため、近所の借家に一時的に住まっていたころに我が家では中学2年の兄がテープレコーダーを買ったのである。であるからそれは昭和46年か47年であったということになる。


雑音なくテレビから録音するためには、イヤホンジャックから音声を取り、テープレコーダーにつなげばいい、ということをテープレコーダーを買った兄が知らなかったのか、コードまで買うまでにはお小遣いが足りなかったのか。


ある夜、歌番組を兄貴が録音することにしたらしい。テレビの前にテープレコーダーがセットされた。


その時から我が家は戒厳令がしかれた。


「一切の音を立ててはいけない、しゃべってもいけない、身動きしてはいけない、もちろん屁をこいでもいけないし、咳はもちろん、くしゃみもだめ。鼻水をすするのも禁止。げっぷは御法度、まばたきも避けよ、願わくば息も止めろ、さもなくばこの家から出ていけ」

という意味のことを兄に申し渡されたかどうかは覚えていないけれども、そうしなければいけない、ということは当時小学5年生の筆者は理解した。


そしてお目当ての歌手が登場する瞬間を待ち、兄がスイッチを押した瞬間から、録音停止のボタンを押すまで、筆者はすべての動きを凍結され、冷凍人間となった。(もしかしたら、歌手ではなくお気に入りのCMソングだったかもしれない)


そして兄が録音停止ボタンを押すと、解凍を許され、生身に人間に戻った筆者は、誇らしげに再生する兄を憧憬のまなざしでながめ、雑音だらけの音楽を拝聴するのである。


それは昭和30年代、家に初めて冷蔵庫が届き、その中に頭をつっこんだ堤大二郎演ずる「オールウェイズ・三丁目の夕日」より10年後の昭和の風景であった。


「南塚口町8丁目の夕日」であった。


駅の雑踏の中で、ベンチに腰掛けながら


「♪恋のダウンロードォ〜 二人パレーェドォ〜」

と鼻歌を歌いながらでも、瞬時に、雑音なく音楽をダウンロードできる諸君には、獲得した一曲の重さというものは断じて理解できないであろう。
こうして、少年少女たちは、「自らの獲得した一曲」と向き合うことになった。FM放送が良質の音質を提供し、また音楽重視の番組づくりは前奏にパーソナリティの語りをかぶせなくなった。


昭和50年代になると「貸しレコード」なるお店が出現し、ますます「私と私の聴きたい曲」との関係は緊密になった。


さらに同時期に「カラオケ」というものが出現し、その人が歌いたい曲を歌い、その他の人は聴いているふりをして歌詞カードをめくって順番を待つ、というのが酒席の歌のスタイルとなってしまった。


かくしてますます「自然発生的合唱」のようなものは激減し、絶滅の道をたどったのである。それは同時に「車座」ということばを死語にし、「手拍子」やら「合いの手」やらを希少生物絶滅危惧種に追いやったのである。こうして少年少女青年淑女たちは


「歌という仲立ちによって、共鳴していく」


という身体的訓練の機会を失っていく。


いたるところに歌があふれていた日本。


何か楽しそうではないか。