476話 親子水浸しの休日
ここ数日雨模様。そして今日は一転して快晴の和歌山の休日。
白鵬が初優勝をしたころ、阪神の濱中が久々のホームランをレフトスタンドにたたき込んだころ、清原が1500打点をただ来だしたころ、アニマル浜口さんが、女子レスリングで3連覇した会場で「気合いだ!」を連呼したころ、筆者は紀ノ川を下っていたのであった。
筆者、今まで紀ノ川の悪口をこのブログ上で何度か書いてきた。情けない水の量でカヌーが下れないと。でもこういうお天気の後ならば水量は確保できているであろう、と、長男と一緒にカヌーで川下り。
前言撤回である。陳謝陳謝。
いや〜、水のある紀ノ川ってホントにいいなあ。
筆者のカヌーは『インフレータブルタイプ』のオープンカヌー。平たく言えば「カヌー型のゴムボート」である。と言っても激流を下っても簡単には穴が空かないように丈夫な材質でできている。
前回やはり長男と下った際には水が少なく、至るところで「ずるずる」とカヌーを引っ張りながら水の中をとぼとぼと歩くという情けないツアーで、その際力つきて上陸した笠田の道の駅を出発点に選ぶ。
道の駅の食堂で550円の大盛り和歌山ラーメンを食べて出発。
快調である。前回と比べて20センチ〜30センチは水量があるため、ずるずると引きずることなくすいすいと下る。
藤崎の堰堤(4〜5メートルのダム)を越えて少し下ったところ。ちょっとした「瀬(流れの速く波立っているところ)」があった。
水の表面の波、つまりでこぼこというのは、水の底の形の反映で、流れが速いほど、そして水が浅いほど水面のでこぼこが出てくる。水底が岩ででこぼこしていて、流れが速くあまり深くないところがごわごわと波立っている。白波が砕けているところは、流れが岩に正面衝突していて「水の表面近くに岩があるよ」というサインである。
さて前方に二カ所白波が砕けているところがあった。そしてその白波があたかも「二本の門柱」のように、その間は不思議に波のないまったいらな部分があった。
前方にて情報収集を担当する長男ひろきと、後方にて情報分析ならびに戦術の決定をする筆者とが瞬時に協議した結果(川下りで瀬に面した際に、慎重に検討している時間はない。「右!」「左!」「中央!」「上陸して下見」などを瞬時に決定しなければ、岩に激突・沈没ということだってある)中央突破ということになった。
ということで中央突破。さて問題の「門」に到着して、その「不思議に波のない部分に関してその理由と状況を瞬時に理解した。
そこはまったいらな大きな岩が作っている、段差(ようするに滝だ)だったのである。白波の門柱にはさまれた部分の向こうには、落差数十センチ(だからたいしたことはないと言えばそうなんだけど)の段差。つまり一瞬カヌーは宙を飛び、次の瞬間着水。
カヌーは大きく折れ曲がって一気に浸水。カヌー内のおよそ75%の高さまで水が満ちる。
普通の船ならこれで沈没は間違いないところだが、「インフレータブルタイプ=ゴムボート」なので、沈むことはない。
カヌーというのは、水中に「水のない自分の空間」を確保して気持ちよく移動する。
しかし、プチ滝飛び越えの際に大きく折れ曲がったゴムカヌーには、万有引力の法則により大量の水が瞬時に流れ込み、またたくまにゴム製の風呂桶と化した。もしくは子供用ビニールプール状態である。
水中に「水のない自分の空間」を確保するのは気持ちがいいが、「水中で水浸しの自分の空間を確保した」というのはまったく気持ちのいいものではない。まだライフジャケットで流れ泳いでいる方が楽しい。
どちらかというと、川に逮捕され、連行されていると表現した方がいいかもしれない。
「こちら湾岸署の青島です。水浸しの容疑者二名、確保しました。聞こえますか室井さん!」
という感じである。
激流(ってほどたいしたことはないんだけれど)を、浴槽に腰湯状態で波にもまれて下るというのは、あまり気持ちいいものではない。というかとっても怖い。「沈没しかけ」というのを肌で実感しながら下るのは決してカヌーの醍醐味ではない。
エアが入っているから沈まないということは理論上は分かっていても、筆者の脳細胞は、『タイタニック』の自動演奏を始めた。いつしかその調べは『ダースベーダー登場のBGM』に変わり最後に『ターミネーターのテーマに』変わった。
筆者の脳裏には「ターミネーター1」のラストシーンで、ずぶずぶと溶けた鉄に沈むシュワちゃんと、ずぶずぶと紀ノ川に沈む筆者親子が重なって見えた。
流れがおさまるまでの50〜100メートルほどを非常に長い時間に感じ、腰湯しながら恐怖におののきながらやり過ごして流れがおさまるやいなや強制上陸。カヌーの水だしをして一息つく。
こういう「大自然の中でのプチ生命の危険」(っていってもライフジャケット装備なので、沈没しても生命の危険は実はない)をかいくぐるほど、なぜか元気になる筆者親子である。
もともと、学校でおもしろくないことが続き、少々めいっていた長男の気分転換も兼ねた今回のツアーであったが、息子はどんどん明るく、元気で饒舌になる。
先日釈放になったヨットスクールの戸塚さんが「体罰で子どもがかわるのぢゃ」という意味のことを週刊誌紙上で語っていたが、それなら別にヨットスクールじゃなくってもいいんじゃない、ということになる。
筆者は別に「体罰絶対反対」などではない。が、子どもがいきいきと変わった成果が出ているとすれば、その大半は「海」「波」「風」とそれと自分を結びつけてくれる「ヨット」などの「自然」がその効果の最大の原動力であると筆者は確信する。
だから体罰は正か否か、というだけに限定した話は、ちょっとずれているような気がする。