477話 波にゆられて
川を下っていると、普段とはずいぶん違う精神状態というのか心身の状態になる。
川は平面だから、次にどういう表情を見せるのかというのが分かるのは、カヌーに座った目線から見える範囲にとどまる。
まずは安全確保というのが第一義に出てくる。のんきにあんパンなどを取り出してのんびりしているところに、不用意に流れの速いところに突入してしまい、あんパンをくわえたまま「あわ、あわわわわ」となすすべもなく気がついたら舟は岩に当たって転覆し、(沈する、と言う)結びつけていない荷物などは流され、あんパンはふやけ、鯉や鮎のえさとなるというような事態に陥らないために、常に五感を働かせている。
参考になるのは「水音」で、耳を澄ませていると、遠くで「ドドドドドド」という音が聞こえる。すると「急流だよ」というサインの一つになる。
『雑念するからだ』の筆者RYO氏と先日ひっさびさに会ったおり
「最近は、流れというものを意識しているのです」
ということを口にしていた。その時は彼の意図するものがもひとつ理解できなかったけれど、先日の「雑念・・・」で
「ここにある5という数字が1,2,3,と来た5なのか、10から減ってきた5なのか、というのを見ている」
というようなことを書いていたので、より理解が進んだ。
読むことで彼の示唆せんとする方向性の一端の理解を深めたが、昨日、カヌーで実際に川を流れ下っていると、いっそう「流れ」というものを意識せざるを得ない。だって一瞬たりとも流れとは縁が切れないんだから。
そして流れにあるいくつものシグナルを見落とさず、聞き落とさず、臭い落とさず、感じ落とさず、味わい落とさずということをして、危険を減らし、楽しみを増す、ということをするのである。
そうやって半日流れとつきあうという「非日常」を過ごしていると、日常の「流れ」を見落としまくっているのでは、という気持ちになってきた。
なんとなく決まった日常、というものへの疑い意識である。
筆者はほぼ決まった週間スケジュールがあり、それに隔週・月一回などのほぼ決まった月間スケジュールがかぶさり、そういう時間軸の流れの上に、その他のお仕事やプライベートなことを載っけている。
時間の軸という「流れ」に合わせて進めているので、一定の速さで流れているように思っていたけれど、本物の水の流れの上で過ごすと徐々に疑問が湧いてきた。
自分というものは、もっともっとダイナミックに速度変化しながら流れているのではないか。日常の急流やらよどみに単に「忙しい」とか「ヒマ」という言葉を一つ当てはめているけれども、そういう目に見える守備範囲以外に目を向けると流れやら渦やら、淵やら瀞やら逆風やら順風やらのおびただしい見落としがあるのではないか?
水の上では流れに応じた対処の仕方、というものがある。
急流は、急流よりもさらに早く漕ぐことで実は安定する。遠い岸辺の景色に「まったく進んでいない」と感じていても、水底をのぞき込むとけっこうなスピードが出ていたりする。カーブでは外側に張り出した側に、おおむね速い流れがあり、速い流れのすぐ脇に逆流があったりする。
だからなんやねん、もっと実生活の実用に即した実例をあげよ、と言われても困る。
なんか違う見方感じ方の予感をとりあえず文字に置き換えているだけなんだから。