479話 99.9%は仮説 2

飛行機の話に戻れば、理屈はどうあれ飛ぶのは事実である。


この本の中身ではないが、筆者はかつて「電気って何だ」ということを知らないという事実に気づいたことがある。


電気とは何か?ということの理解がないままに、高校だったか中学だったかいきなり「オームの法則」とかを習って、指を曲げて覚えさせられた。

先日、別の場で「実は電気というのは何か?というのにも諸説あるんですよ」ということ初めて聞いた。


電気の正体について、矛盾なく説明のつく皆が納得した確定した学説はないらしい。筆者が「聞き落としたのか、忘れたのか」と悩む必要はなかったんだ。ようするに学校の授業では、電気とは何か、という正体の説明がないままに「電流」とか「電圧」とか「抵抗」とかいう単語を詰め込んだのである。

実におさまりの悪い思いをしたのは正常な感覚だったのだ。


電気っていうのは、実は正体は何かよく分からないんだけれども、こういう現象が起きて、実用に取っても役立つので、ちょっとおぼえておきまひょか、と言われれば、きっともっとおさまりは良かったように思う。


ええい、教科書よ。世の中の森羅万象の原理や原則、価値観とはこうである!と断言して偉そうな顔をするのをやめよ!


もっと分からないことやあいまいなことは「実はよくわかっていないんです」と謙虚に記載せよ。今のところこうなっているようなんですけどね、と人間らしく記述せよ。


ということで書名の「99.9%は仮説」になる訳である。

様々な科学の学説は、実は仮説なんだから、きわめて豊富な種類の幅広い仮説がある。


『今自分が信じている「自分の記憶」というものは、全て数秒前に作られた説』というものまである。


これは「世界誕生数秒前仮説」と言って、実は世界が誕生したのは数秒前で、しかしあなたには精妙な記憶が施されているので、自分はもう何十年も生きていると思っているし、地球は何十億年も続いていると思いこまされていると仮定して、それを否定する証明をしてみろ、という哲学の仮説なんだそうである。


しかも、実はこれを否定できる明快な反証というのはなされていないのだという。


そうか、そうだったんだ。


実は、先日このパソコンの中の「ワープロソフトの過去の文書」が突然消えてなくなるという事件が起こった。道場の予約ノート原紙や、講義録や研究日誌などを書いたような記憶があったのだけれども、それは数秒前に作られた誤った記憶だったんだ。


失われたと思っていたけれど、それは誤りで、きっと最初からそんな文書書いてなかったんだ。


そうだ、そうに違いない。断じてそうだ。色々とつじつまは合わないような気がするけれども、ここは一つ、その仮説を採用しよう。


「こうやればこうなる」という使用法は豊富に集積されているが、なぜそうなるのかという理論はきわめてあいまいで、ほとんどが仮説である、という科学の現状、世の中の常識をさらに眺めてみよう。


一般庶民大衆民百姓は、科学が進んだ世の中だから「何故そうなるのか」ということが続々と明らかになって、その結果新しい技術が生まれてきていると錯覚している。


少なくとも筆者は、この本を読んでびっくりしたのである。


「こういうことをしてみたら、何回繰り返してもこうなっちゃう現象があるから、これってなんか使えないかなあ」


というような仕組みで、世の中の『科学の結晶』はデビューしているようだ、ということである。


しかし、われわれ一般庶民大衆民百姓は、そういうことは知らないから、続々と世の中の原理が解き明かされていると錯覚している。専門家はその原理に精通しているように思うけれども、中には実にいい加減なものもあるらしい。


常識になっている「地震の起こるメカニズム=大陸プレートがひずんで・・・」というのも、ホントかどうか断言できるものではないらしい。・・・そういう説が主流である、という程度のものなのだ。でもこれって「常識」として刷り込まれていますよね。


この本によると、「体や健康・育児」に関するものなど、理論はけっこういい加減なものがまかり通っているという。


マイナスイオンは体にいい、というような説は、実はほんとに体にいいなんて誰が言ったの、どこで証明されたの?」ということらしい。根拠のない説が一人歩きしていることにこの本の筆者は危惧を表明している。


この本によると『科学的である、ということは「反証可能である』ということである。


つまり、

「今まではそなたは、これこれこういう理屈でこうなっていると説明してたけれど、拙者の研究によれば、こういう矛盾があるではないか。さすれば、拙者の説くこういう理屈の方が筋が通ろうものである。参ったか、控えおろう!!」


「ははあ。あっしが間違っておりました。お許しくだせい」


というのが科学的な態度だ、というのである。


まこと痛快な、遠山の金さんのような明快さである。「ごくせん」のようないそぎよさである。(筆者の理解のしかたがおかしいのかな)


「科学的」というのは、確定した原理の固まりじゃなかったんだ。科学的に証明された結果常識になったのではなく、何となく常識として通用しているから科学的な根拠が明々白々だ、という錯覚が満ち満ちているのが、世の中だと思った方が、どうも自分の中からいろいろなものが生まれてくるきっかけになるような気がする。