486話 三丁目の夕日

DVDを借りてきて「三丁目の夕日」を観る。いあ〜、泣いた、泣いた。


昨年末の法事の折り、筆者のみちのく一人旅(単身赴任とも言う)中の兄上が、非常にむくみきった顔でやってきた。


人さまの健康状態を推し量るというのは筆者の日常業務であるので、法事の最中密かに気になっていたのである。


法事後の宴席でことの真相が明らかになった。法事に合わせて法事の前夜帰阪した兄上であるが、たまたま家族がみな用事で不在であるという状況だったとかで、せっかくの空き時間!と「三丁目の夕日」をオールナイトだかレイトショーだかを見に行った。


三丁目の夕日というのは、昭和33年の日本(東京)という時代を描いた映画である。映画に収められているエピソードもいいんだけれども、昭和という時代、33年ごろという時代の臭いとでも言うべきものをひたすら醸し出すことに命をかけている映画である。


映画を観ながら、その時代を知る観客が「そうそう、あった、あった」「そやった、そやった」という思いを喚起させることに情熱の全てを傾けている。(って勝手に決めつけてますが)その時代を知らない筆者でさえ、その時代を知っているかのごとく錯覚してしまうのであるから、制作者の意図はうまく機能しているのであろう。思うつぼなのである。


筆者は昭和36年生まれであるが、兄上はまさにその昭和33年生まれである。


「あなたの誕生日の新聞の縮刷版をプレゼント」なんていうのが注目されたことがあったけれど、この映画はその比ではない。あなたの生まれたまさしくその年・時代を忠実に再現しました!という作品である。


昭和36年生まれの筆者でも、板壁に落書きのあった湿っぽい路地の臭いや、基地に見立てた土管のコンクリート臭などが甦って、映画の内容に制作者が盛り込んだ情報以上に共鳴し、結果として映画の後半推定8回ほど感涙にむせび、うち3回〜4回は号泣するのである。昭和33年生まれの兄上の共鳴共感的感涙エネルギーの量というのは、そうとうなものであったであろう。


感情というものは、発散すると身体的に処理されるが、途中で止めると圧縮され、増幅され、前にも増したパワーで噴出する、ということがある。


筆者は自宅で観たので、心おきなく号泣し、すっきりと立ち直った。兄上はおそらく映画館で人目はばかることなく号泣できるキャラではないと思われるので、涙は流せど、幾ばくかは止めたであろう。その出損なった涙が、頭蓋内で行き場をなくし、翌日の兄上の顔をぼわぼわにむくませていたのでったということがよーく理解できた。


昨年末、元神戸元気村代表のバウさんとひさびさにお会いしたときに、



「津田君、年をとらないと分からないこと、年をとって初めて分かるものがあるねん」



ということを、どういう意図か分からない、唐突とした文脈で語られたのを思い出す。その話の続き「例えばな・・・」の部分はなかったのでバウさんが何を言われようとした言葉だったのかは分からない。


3丁目の中で堤真一演ずる傍若無人単純明快な野人のごとく鈴木オートの社長が、二回ほど戦争は終わったということに言及する場面がある。


筆者には戦後の10年というものがどういうものであったかはまったく知らない。しかし、阪神大震災後10数年というのがどういうものであったか、ということは身体でてわかり得る部分がある。戦後の日本というものを、日本中が長田のような焼け跡になり、そこから13年で東京タワーが建つところまで復興していくということが、どういうふうにその時代の人の胸に響くかが、震災とその後というものを経験することで、何となく感じられるような気がする。


だから鈴木オートの社長の「戦争はもう終わったんでえ」という言葉の後にある「思い」のようなものが、以前とは違った感触で胸に響くのであり、また堤の言葉を「お父さん、戦争の話はもういいよ」とさえぎる家族の声との温度差というものもまた、「ううう〜む」と響くのであった。


もちろん、本当のところは当事者しか分からないということも分かる。また当事者間だって個人個人で受け止め方は色々だ。

すくなくとも、10年前また20年前には「そういう心への響き方はできなかっただろう」ということは分かる。その年齢になって初めて分かるということは、こういうことなのかなと思ったりする。