540話 人体 ちくわ理論

ためさん経由でT田さんから送られてきた講習会の企画案をつらつらと眺める。


テーマは「カラダを育てる」
 〜カラダの声に耳を澄ませてみれば〜

というテーマであるが、中高年向きの保健体育講座ではなく、青少年向けの『環境学習の一環』という、筆者から見れば実に的を得た視点といわざるを得ないテーマ設定である。さらに「自分のからだとのコミュニケーションのとり方を学ぶ」などという素敵な企画案文が続く。


環境とか自然を考えるときに、もっとも身近な自然なはずの自らの体というものを置き去りにしていいはずがない。


筆者の口からでまかせ頭脳に、基調講演(講座の前振り 落語の枕のようなものね)のキャッチコピーのタイトル(中身が瞬時に表示されるほど頭脳明晰ではない)が列挙される。


「気とコミュニケーション」

という核心になるコピーや

「温故知新 和の知恵を知る
      京の都の身体知性」

などと主催者と参加者におもねるご当地礼賛メッセージ

「私も自然の一部  環境を保護しようといってる私って何?誰?」


というような内容にかかわるコピーがずりゅずりゅっと浮かぶ。


環境を保護しましょう、という際の主語は人間である。

人間というとよく


「一人一人かけがえのない」なんて言い方をする。


「一個の人間として」というような言い方をする。


果たして一個の人間とそれ以外という明確な線引きがあるのだろうか。というあたりにまずいちゃもんをつけてしまえ、ということが頭に浮かぶ。


とりあえず、一人の人、あるいは「自分」と言うときに、肉体的につながった一かたまりを指す。


じゃあ、その一かたまりの肉体である自分はほんとにひとかたまりなの?と考えてみるとどうも怪しい。かなりの誤解と錯覚があるように思える。


自分と自分以外を分けるものといえば、皮膚であろう。皮膚の外側こそが私、という人はまずはめったにはおられまい。そういう日常的に幽体離脱している方が、講習会参加者の大半を占めるということは考えにくいので、(そんな講習会の講師はぜったいやだ)無視することにする。


まず知っておくべきは、人間というのは実はちくわのようなものなんである、ということだ。
(続く)