545話 視野狭窄
人間というのは、火急の事態に陥った時には、おっそろしく視野が狭まるようである。これは精神的な意味でも「もっと視野を広く持ちなさい」なんて使われ方もするけれども、事実生理的な問題としてのお話である。
月曜日は【快の学校】(快氣法の一年コース)であった。この日は平日の夜クラスなので、終了が9時。片づけやら四方山話やらをしていると、10時を回った。夜のクラスであるので、その場に残った全員夕食は食べていない。河野先生以下、「じゃ、行きましょうか」と道場のあるビルの地下のお店に。
ちょっと飲み食いするともう11時になるので、遠い順に抜けていって、最後は河野先生、筆者、受付のN納さんの3名。全員が「阪急神戸線 塚口方面組」である。
阪急の南方駅は、線路をホームが挟んでいる形であるけれども、ホーム同士をつなぐ高架の通路のようなものはない。ホーム端の踏切を挟んで、京都方面と十三方面で、それぞれ切符を買って入るような構造になっている。
電車が来ると踏切は降りるから、踏切の向こう側のホームから出る電車に乗ろうという人は、遮断機の下りる前に怒濤のように踏み切りに押し寄せ、来る電車に間に合わせようと急ぐ。
この時も、踏切20メートル前でちんちん、カンカンと踏切がなり出した。表示を見ると十三行きの→が光っている。ということで、3名は脱兎のごとく踏切に駆けだした。なんせ終電に近いから一本乗り過ごすとう〜んと遅くなる。
踏切に突入した時はまだ遮断機は下りていなかったが、通り過ぎる前に遮断機は下りてしまった。(よい子はまねしないようにね)
以下、書き記すことはそのコンマ何秒に筆者が考えたことである。
遮断機が下りた。このままでは線路内に取り残される。でも車じゃないんだから、簡単に外に出ることができる。遮断機の棒をくぐるか、またぐかしたら、お茶の子さいさい、簡単だ。またぐか?くぐるか?いつものように大きめのソフトアタッシュを肩からぶら下げている。ショルダー状態のままくぐるのは体勢的に苦しい。(ここまでおよそ0.3秒)
よし!遮断機を持ち上げて下をくぐろう。持ち上げるなら、バーの根本側よりも先に近いところの方が稼働域が広いから、簡単に持ち上がるだろう(この間、おそよ0.1秒)
筆者は神戸製鋼ラグビー部の選手が、東芝府中ラグビー部の群がるタックルを交わしながら、右隅にトライを決めるがごとく華麗なステップとダッシュで、遮断機の先端側、右へとコースを取り、(この間、0.09秒)
遮断機に手をかけて(0.12秒)
持ち上げようとしたら(0.5秒)
なんか遮断機らしくない「ぼにゅにょにょにょん」とした手応えに(0.5秒)
びっくりして(0.6秒)
遮断機の中央部を見たら(0.8秒)
遮断機のバーの中央あたあたりを
『またいで』窮地を脱しようとしていた
スカート姿の女性の股ぐらに
おもいっきり遮断機のバーを持ち上げて突っ込んで
木馬型拷問機状の苦痛を、その見ず知らずの妙齢の女性に
ぐりぐりと与えて
(ここで一瞬時間は止まった。
ここで筆者の脳裏には、夏の高校野球大会テーマソング
『8月に熱くなれ!』が0.1秒鳴り響いた
「♪時よ 止まれよ ただ一度♪
あ〜あ〜 8月にぃ 熱くなれぇ」)
いたことに気づいた(0.3秒)
あわてて、すぐにバーを降ろして、自分もまたいで渡ったのであった。
あまりに一瞬のできごとに被害女性もこちらをとりたてとがめ立てることなく、それぞれ駅のホームへと消えていったのであった。
人間というのは、火急の事態に陥った時には、おっそろしく視野が狭まるようである
ということで、緊急事態ほど、右見て左見て行動しましょう・・・と、このフレーズを落ちにして終わると思ったが、唐突に「なぜ被害女性に抗議を受けなかったか」が分かったので終われなくなった。
この女性も緊急事態に視野狭窄を起こし、その視野には、みずからの股間に接近するバーの激突部分ぐらいしか入らなかったに違いない。もしこの時点で十分な視野が確保され、みずからの股間を襲う黄色と黒のしましま棒の先端付近で、なぞの中年男がバーを「これでもか、これでもか」と持ち上げているのが目に入っていたら、筆者はやはりただでは済まなかったような気がする。
ということで、世の中見ないですむことは見ないですんだ方が、不要な争いを起こさないでいいんじゃないか、ということでまったく逆の結論に至ったのであった。
人は、まったく同じ状況から、異なった教訓を得ることができる非常に便利(自分勝手とも言う)な動物なのである。