548話 川ガキ復活の後で考えた

さて、筆者の体験的記憶と、川原から見る川の中の様子からすると、やはりこの川の川底は平たい丸石と砂地、砂の下は粘土、泥。石の表面はぬるぬるとこけ、というのは、筆者が川ガキしていたころとそう変わっていないようである。


川下に見える復活川ガキの2名の小学生も、すべってこけて水浸しにならないように、へっぴり腰でおっかなびっくりふとももまで水につけて楽しげに川に入っている。

11月の川の水である。冷たくないはずはない。筆者はつい一昨日、遅くなったので道場に泊まることにして、夜に十三の公衆浴場「ゆ〜らく」まで出かけ、100円追加してサウナにも入ったのである。

サウナに入った時は、日本刀を鍛えるように水風呂に入るのが作法である。その時の水風呂の水温表示は「20℃」であった。外気温の20℃〜21℃は大好きな筆者であるが、水温になると話は違う。肩まで入るのに、それ相応の時間をかけた筆者であった。


この時期の川の水温は以下ばかりか。外気に近いとすると20度ということはなかろう。しかし、川ガキは嬉々として入っているのである。川ガキOBとして嬉しい限りである。


かれらは、裸足でぬるぬるのこけや、つるつるの石や、ぐらぐらの隠れ石や、ねちょねちょの川底の泥などを五感でフルに感じて水の中で過ごしているのである。


そういうものが自然だということを肌で知るのである。


足下がまっ平ら、というのは都会で生活していると当たり前のような気がするけれども、およそ自然で足下がまったいらというのは、氷上ぐらいしかないのである。でこぼこ、かちかち、が当たり前なのである。

文明の発達というのは、まっすぐ、真っ平らが好きなようである。

道もビルも、時間もまっすぐにしようとしているように思える。


もちろん、その恩恵は筆者十二分に受けている。江戸の昔の生活に戻ろう(学ぶことは多いのですが)と声高に叫ぶものではない。平らな土地にまっすぐなレール、そこを走る大阪地下鉄と南海電車のお陰で、和歌山のご城下から大阪まで日帰りで仕事ができるのである。


もし徒歩で通勤するとどうなるであろう。大阪〜和歌山間はざっと70数キロである。早朝から晩までひたすら歩いたとしてざっと二日はかかる。一日ではまず無理である。

月曜日に和歌山の自宅を出発して、道場に到着するのが火曜日の夜である。水曜日一日仕事をして、木曜日半日仕事をする。木曜日の午後出発にすると、金曜日丸一日でもまだつかないから、土曜日の昼過ぎに和歌山に到着となるだろう。土曜日の午後から日曜日一杯自宅で休みとなる。

明けて月曜日はまた大阪へ出発である。


週間 1.5日勤務、1.5日休み 4日間移動。


こういう生活はしたくない。


しかし、まっすぐな道、真っ平らな道路に生まれたときから親しんでいると、それが当たり前になってしまう。


しかし、道も地面も本来はでこぼこでくねぐねである。それが当たり前なのであって、まっすぐなのがきわめて珍しいというのか、きわめて不自然なのである。


これすなわち、そのまま生活であると思う。生きていくということはきわめてでこぼこなのである。人間関係でも、生活の糧を得る何かでも、でこぼこしているのが当たり前なのである。


120円を入れれば、毎回同じジュースが出てくるのが当たり前のようになっているけれども、それほど単純なものではないのである。


「努力すれば必ず報われる」という言葉をよく聞くが、あまり正しいとは思えない。例外は限りなくあるように思える。努力しないで報われているやつだって一杯いる。


目標を立てることを否定しているわけではない。筆者も目標を立てるのは大好きである。




しかし、目標にむかってまっすぐ行けるのが当たり前で、後は努力に正比例する、という考えは裏切られた思いをしょっちゅうしてしまうように思える。目標に向かって進むということは、数限りない蛇行を計算に入れて、それでも目標に向かうということだ思うのである。うまくいかないことも計算に入れて目標に向かう時、途中のうまく行かないことは計算済みだから、いちいち落ち込まないでいいのである。


そういう「何もないのが当たり前で、何かあるととてつもなくショックを受ける」というような体質がいつのまにか体勢を占めつつあって、そういうことが簡単に自殺してしまうようなことにつながってはないか、と思えるのである(いじめるやつに責任がない、って言っているのではないことはご理解下さい)


川ガキは、五感をフルに奮い立たせてくれる川底のでこぼこのぬるぬるだから、楽しいのである。あの川底をコンクリートの真っ平らにしたら、瞬時に川ガキはまた絶滅するであろう。


(遮断機ぐりぐり男が、なんか偉そうなことを書いてしまったわ)
 ※11月1日 視野狭窄の項 参照のこと