560話 手書きは良くない

筆者高校生のみぎりの話である。


今のように豊富にこづかいのない高校生のころの話である。


先日書いた「阪神タイガース応援団」だって、今のように阪神甲子園球場外野席はプラチナチケットではなかったから足げに通えたのである。


読売新聞の読者サービスで、折り込みチラシを販売店に持っていけば、ただ券がいくらでも手に入ったので、同級生からちらしをかき集めて、応援団メンバー参加者数のチケットを入手して、自転車の荷台に旗竿をくくりつけて自転車で通ったのである。向こうで飲むジュース代ぐらいしかいらない。


貧しい男子高校生であるが、その生理を考察すると、筆者のみならず筆者の同級生たちのほぼ90%以上の頭の中は、おそらく95%以上は「女の子」「異性」「エッチなこと」で占められていた。


今のようにネット上で「行きつくところまでいっちゃった」ような情報が氾濫し、「官能写真というよりは解剖学に近いような写真」までがあふれ、無料でどんどん手に入るという時代ではない。情報のほぼ90%は雑誌または書籍である。


雑誌というのは、情報がいろいろである。「週間○○」などであれば、政治経済芸能などなどの中に、その手の写真があったり、その手の小説があったりするので、まだ入手しやすい。


書籍というのは、100%「これはエッチな小説だ」と宣言しているので、高校生としては買いにくい。「淫乱看護婦のただれたアフターファイブ」とか「美人妻 背徳のよろめき」なんて本を高校生が、それこそ幼稚園児代から知っている(知られている)「あさご書店 上の島店」の柔和なにこにこ顔のご夫婦の前に差し出す勇気はない。


まれに入手した雑誌の中の「そういう小説」というのは、暗記するほど読み返しており、そうなってくると興奮しなくなってしまう。だって連載一回分だから短いいんだもん。


そこで、筆者は


「買おうにも買えない。かくなる上は自分で書けばいいんだ!」


とひらめいた。


そして、大学ノートを縦書きに使い、官能小説を自分で書くことにした。


経験は皆無に等しく、断片的な過去読んだあらゆる「そっち系」の情報の記憶をたぐり寄せ、書き始めたのである。


事前の計画では「ふふふふふ、これで自分ののぞむあらゆる痴態・媚態・露骨・斬新、ありとあらゆる性描写も思いのままだ。究極のエッチ小説が読めるぞ!」


とほくそえんだのであった。


しかし、書き始めてみると意外と難しい。「そういう行為」をいきなり書いても、主人公への感情移入もできない。感情移入できないと興奮も感動もしない。ことが「そういうこと」に至るまではどうするかに至るまで、実にたくさんのことを考えなければならない。

主人公の名前はどうするか。自分というのでは、万一他人に見られた時に恥ずかしい。女性の名前をどうするか。あこがれのあの子そのままというのには抵抗があるし、まったく見ず知らずの名前というのも芸がない。年齢はどうする。舞台はどうする、背景は・・・などと考えるとまったく筆が進まない。


「本能直結」の快楽のひとときのはずが「知的負荷超過重」な作業になってしまっていく。


ちっとも進まないので、いわゆる「いきなりそういう行為」を大学ノート1ページ半に渡って書いた。


ダメである、まったく興奮しない。


だって自分で書いたんだから、何がどう書いてあるのかというのは先刻承知である。自分一人でババ抜きをするようなものである。その手の行為における自分でも知らないような行為は、体験がないんだから書けないので自分の疑問にも答えにならない。


最悪なのは、「自分の字」である。


どうあがいたって「これは俺が書いたもの」ということがありありである。活字の向こうにある未知の世界へのいざないではなく、くせ字のこちらにある既知の世界の確認である。


かくして「自分で官能小説を書けば、お小遣いも減らないし、本屋で危ない橋を渡らないでもいいし、ありとあらゆる官能表現、性描写自由自在万々歳大作戦」は失敗した。


日誌には手書き文字は最高であるが、手作りエロ本作りには最悪である。