575話 ホテルN

筆者宅の愛犬は、めすの柴犬の「すずな」である。いわゆる「豆柴」を選んだわけではないが、結果としてまめ柴だった。

散歩コースの途中にN階さんという散髪屋さんがある。大ベテランのご夫婦二人で切り盛りされている。

つい先日までそこには大型の超老犬が飼われていたのであるが、老衰で天寿を全うしている。

犬が好きで好きでたまらないのであるが、今までに数匹を二世代天寿を全うさせるまで飼われていて、

「次の子(犬)が十何年後に年を取ったころの、自分の年齢を考えると、飼われへんねん」


とのこと。


その老犬健在のおりから、店の前を通ると、犬好きのご夫婦、特に奥さんが我が家のすずなも大歓迎で、犬の接待用に店内にキープしているカンカンからビスケットを取り出しては振る舞い、最近はお客さんがいなければ鎖を外して店内を走り回らせるという歓迎ぶりである。

犬の方でも犬好きな人は分かるとみて、N階の奥さんの気配がすると、飛ぶは叫ぶは、しっぽはちぎれんばかりに振るは、終いには『うれしょん』(喜びのあまり漏らす小便)までのフルコースである。

さて、筆者は大阪、その他の家族も泊まりでお出かけせざるを得ず、すずなを夜どうすればいいか、という事態になったことがあった。

やむなく、いわゆるペットホテルに預けることを考えていたが、それを聞きつけたN階さんは

「そんなことダメ、ずぇ〜たいダメ。うちに預けなさい。うちに泊めなさい、決定!」


とペット民宿Nを臨時開店し、無事すずなは泊まらせて頂いたのである。


ビールなどそれなりのお礼はしたけれども、今後ともこういう事態の場合にはお願いせざるを得ない可能性は高い。かつすずなも他のどこに預けられるよりも安心で快適である。


ということで、筆者は最近はN階さんのお店に散髪に通うようになった。少し前まで散髪は2年に3回。スポーツ刈りにした髪の毛がポニーテールになったら散髪という散髪習慣から脱却したのである。


N階さんのご主人の方は釣りが趣味だそうである。頭を刈ってもらいながら釣りの話になった。(筆者は釣りはしない)和歌山市であるから海は近い。工場などもあるのだけれど、市内から十五分もあれば行ける雑賀崎灯台の下なども、水はきれいだし、アジやサバなど季節季節で良く釣れるのだそうである。


筆者は、学生時代が山陰の松江。バイト先が魚料理のお店だったので、そこで覚えた、アジやらサバやら近海物の大衆魚の鮮度がいいものがいかにうまいかという体験を熱弁をふるっていたら、「ほなら、これから釣れたらもっていくわ」という話になってしまった。


Nさん、釣るのは好きだが、食べるのはさほどではないので余って困るのだという。


うちは、子どもたちもみな魚好きである。


ということで、さきほどNさんの奥さんがアジを袋一杯持ってやってきた。すずなが二階のベランダで「Nさん、Nさん」と騒ぎ立てるので、玄関先まで連れて行ったら「ちょいと散歩してきてええやろか」とそのまま町内ぐるりと一周。糞までさせて帰ってきてくれた。


三月に二回程度の散髪が、月に幾度もの海産物とすずなの散歩代行と、まれにペットホテルに化けるのである。N階さんと我が家の収支は、我が家が完全に黒字超過である。言い換えれば「借りが大きい」である。

もうちょっとまめに散髪に行こうかと思う筆者であった。