576話 三丁目の断続的な夕日

昨日。

夜に尼崎に実家に泊まりに帰る。時刻は十時過ぎ。

筆者のみちのく兄上の顔を涙でむくませた名作、『オールウェイズ 三丁目の夕日』がテレビで放映中でった。

「おおっ、おっ母さん!三丁目を鑑賞中でござるか?」

「息子よ、私にはこの映画はさっぱり訳が分からないだよ」


え?

だって舞台はみちのく兄上の誕生した昭和33年。母君おかれましては懐かしさにむせぶことはあっても、若者向けの異常にテンポが速い作品やら、前衛的な作品のような混乱を呼び起こすような作品ではないと思っていたのだが・・・・。めまいとふらつきが持病である母君が、マトリックスを見てひっくり返ったというのなら訳が分かるが、三丁目を見て「わけがわからない」とは・・・?


母上が準備してくれた食事を頂きながら、三丁目を見る。15分後、母上の


「さっぱりわからねーだ。筋もわからん。登場人物が何している人なのか、関係もわからん」

が何故なのかが分かった。


母君は、最近のポリシーとして


「何かを思い出したり、思いついたら間髪を入れずに行動に起こす」


ということを掲げているそうなのである。


すぐにやらないと「『あれ、さっき思い出したことはなんだっけ?』と思い出せなくなるからなのよ」

なんだそうだ。


それで筆者が飯の食っている間も、筆者の食事とは関係なしに、何か思いついては取りに行ったり片づけに行ったりしている。


三丁目の夕日というのは、昭和三十年代の東京の下町の様々な庶民を描いたほのぼのとした漫画を原作とした映画である。ある主人公がぐいぐいとストーリーを引っ張っていく、というものではない。

その時代にあったかもしれないなあ、という何気ない日常を切り取って、しみじみと見せるのである。したがって原作の漫画では毎回変わる主人公が全て画面に登場するので、確かにやや多い。漫画の数話分のエピソードを一本につなげているので、いくつかの落ちのある話がまとまりつつ一本になっている。


そういう構成の映画を、母君のように数分から10数分に一回立って別室に行き、数十秒から数分の間をおいて後続きを見るというのでは、分かるはずはないのである。


なぜなら、母君がふだんみているのは「××サスペンス劇場」のたぐいである。


犯人は分からないが、船越英一郎片平なぎさ、水谷ゆたか、真野あずさ、などは絶対に犯人ではなくって主人公である、という決定事項のもとに、殺人現場が北陸か、伊豆か、房総か、東北か、という選択肢の上に、温泉が付くか付かないかという程度のオプションという安心の前提でごらんになっておられる。(たまに時刻表が問題になることはある)


これらサスペンス劇場であれば、事件の発端と最後の10分を見ればいいと言えばいいとも言える。(ごめんなさい、作品を作っている皆様)これらに比べれば、三丁目は非常に複雑だ!と言えるかもしれない。


筆者は、映画を見ながら、母君が見逃したところの筋がつながり、感動を共有できるように解説しながら見だした。


見だしたのは10時過ぎである。食事を終えて解説をし始めたのは10時30分以後である。残り30分というと、そろそろ「泣き」の場面がこれでもかこれでもかとたたみかけてくる当たりである。


たくま先生は、なぜ独り身なのか。なぜサンタクロースを引き受けたのか。なぜ淳之介はお母さんを捜しに出かけたのか。なぜチンチン電車で無事帰宅できたのか。竜之介は何故指輪の空箱を開けたのか。


空箱から出した架空の指輪を小雪にはめる名場面を、泣きながら解説するあたりで筆者は「映画は解説しながら見るものではない」ということを痛感した。


なぜ小雪は忽然と姿を消したのか。従業員の娘はなにゆえ青森に帰りたがらないのか。ここまで全て解説し終えると、後は淳之介が帰ってくる場面と駅まで送る名場面しか残っていなかったが、全てのストーリーを理解した母君は、ここから最後までは席を立つことなく無事ラストまで見終えたのであった。


ラスト8分は集中して観て、思う存分泣くことが出来たのでよしとしよう。