577話 お母ちゃんの人生がつまらなく見えるようではダメ
三丁目の夕日のキャッチコピーは
「携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう」
だった。
実際問題、昭和30年代にぱっとワープしたとしたら、退屈でしょうがないだけかも知れないが、その時代の空気を知っている者としては、確かに「あのころにあって今失っているような何か」を思い出すと、何かが「しみじみ」と迫ってくるのは確かだ。
その「しみじみ」は実に「しみじみ」として「地味地味」とも言えるが、しかしそのしみじみが地味地味と感じられることは、「私が生きていく」ということの深いところに響く、とても大事なものである、というしみじみであることは、地味ながらも明確である。
2日の大阪読売新聞の夕刊、教育欄に「命を学ぶ」というタイトルで、「11月に連載された 【教育ルネサンス 命を学ぶシリーズ】の担当記者の「まとめ感想記事」が掲載されていた。
以下抜粋
「いのちの授業を30年以上続ける金沢市立西南部小学校教諭の金森俊朗さんの言葉には何度もはっとさせられた。
「子どもたちは、命の大切さを見失って命を粗末にするわけではない。そんな短絡的な話ではない。」
「大人は子どもに『夢を持て』と言い過ぎる。お母ちゃんの人生がつまらなく見えるようではダメ」
出世や成功への期待が大きい代わりに、大人は、日々の暮らしのささやかな喜びや、身近な人々を敬う気持ちを子どもたちに伝えるのを忘れがちだ。 以下略
あ、そういうことね。
こどもを観て、子どもの目が「イキイキと輝いている」様は、大人を和ませる。
すさんでいる、だるそう、コンビニの前にへたり込んでいる、電車の中でお尻をついてしゃがみこんでいる、ヘッドホンステレオをして、メール画面だけとつながって、回りと交流していない様を観て「心暖まる思い」がしみじみとわいてくることはない。
表面は取り繕っているけれども、子どもが表現で行動していることは、実は大人の内面で怒っていることを、反映をして行動として表面化させているだけなのね。
三丁目の大人達というのは、別に成功してる訳ではない。が、それなりに懸命なのである。ではあるけれども、「これからもっと良くなりそうかな」という時代の期待感が背景にあるということは確かに大きいが、それぞれちゃんと「生きる」という「イキイキしたもの」が発動しているのは確かだ。「そんなヒマはないわよ」という状況である。
今の時代というのは、本当は、大人達がコンビニの前でへたり込みたいような内面になっていて、回りと交流することを拒絶していて、目がどろどろとすだれがかかっているんだ。
我が家の子どもたちが、親父である筆者を見て「なんてすばらしいお父さんなんだ。お父さんのような大人になるぞ!」とは思っていないのは明白であるが、「なんてうじうじしたお父さんなの、大人になるなんんてつまらない」と感じていることはなさそうに思う。
すくなくとも、その程度には我が家は円満である。その程度で十分じゃないの。