588話 お産を考える 1

安産のことを書いてきたけれど、N山さんと色々お話しているうちに出産に対する見方がまた一段変わったのを感じる。本当は前からそういうふうに考えていたと思っていたけれど、一段と腑に落ちた感触である。


今までも「お産は自然な方がいいよなあ」と思い、実際には次女の出産に関しては、民家のような助産院で、理解ある超ベテラン助産婦さんに了解をとり「その時、一番楽な姿勢で産ませてくださいね」と打ち合わせし、四つんばいの家内を、亭主(私ですよ)が前から支えて産む、というようなことをやったりもしたのであった。


筆者が若かりしころは「ラマーズ法」が有名で、妊婦さんは「ひっ、ひっ、ふ〜」と練習していたものである。


その後、神戸の産婦人科で「マタニティヨガ」を取り入れている所があり、その先生が「新・ラマーズ法」を提唱されている先生で、そこでは「「ひっ、ひっ」はなく「ふ〜、ふ〜」という呼吸で、ひたすら「力まない、いきまない」ということをされておりました。


N山さんがいかなる出産法を今回の巨大病院で指導されていたか、というのは聞き損ねたのだけれど、「ふ〜っ、ふ〜っ」という表現をされていたところからすると、最近はそういうリラックスするお産が主流なのかもしれない。それはいいと思う。


いずれにしても、今回の出産記を聞いて「産む」ということばに違和感が出てきたのである。「
分娩」なんていっちゃうとさらに「何なのそれ」という感じである。


お母さんは、お産の際の主役の一人なのだけれど、もう一人の本当の主役である赤ちゃんの光の当たり方がおかしいと感じだしたのである。

赤ちゃんが脚光を浴びていないとは何事か!と異論をはさむ方も多いと思うが、ようするに「お出まし」になるまでの扱いかたである。


これが卵であるならば「産む」ということでもいいかもしれないが、N山さんの傍らですやすや、もしくはおぎゃあおぎゃあ泣く産後数日のM子ちゃんは、とても可愛く、一人前になるまでは他の動物とちがって十数年かかるのではあるが、しかし、人として生きるために十分なパーツはそろっており、どう見ても一個の独立した生き物である。


何に「いちゃもん」つけているかというと、「産む」というと、この子は何もしないで、お母さんの体内の蠕動運動のようなものによって卵のごとく押し出す行為のように扱っているのではないか、というニュアンスを嗅ぎ取ったということなのである。というか、私自身がそういう視点をぬぐい去れていなかったということに気づいたということなのである。(つづく)